ベトナム戦争からの半世紀 その48 サイゴンの悲しみ
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
■本稿のポイント
・1975年4月30日のサイゴンは、米軍撤退と南ベトナム政府の崩壊により、混乱と終末的な空気に包まれていた。
・要人・市民が必死に脱出する裏で、アメリカの撤退が南ベトナム政府の要請だったという「知られざる政治的真実」を目撃。
・記者として歴史的瞬間を報じる使命感とともに、慣れ親しんだ社会が崩れ去ることへの深い悲しみが強く描かれている。
1975年4月29日午後、北ベトナム軍の砲撃によりサイゴンは極度の混乱に陥り、国家機能は瓦解寸前となった。残留した筆者(毎日新聞サイゴン支局長)は、狂乱の脱出劇と、アメリカの全面撤退が南ベトナム政府の要請だったという知られざる政治的真実を目撃。陥落前夜の緊迫した現場を、当事者が使命感と深い悲しみを交錯させながら、半世紀を経て綴る。(Japan In-depth編集部)
米軍撤退の結末:サイゴン陥落当日、「都市機能の瓦解」はなぜ起きた?
ベトナム戦争の最後の日となった1975年4月30日、サイゴンは早朝から陰鬱な小雨に濡れていた。熱帯の南ベトナムでシトシトと降る雨は珍しい。市中心部のビルの6階にある毎日新聞サイゴン支局の窓からみおろした街はこの雨にけむり、すさんでみえた。だが街路は無数の人間と車のごった返しで混乱をきわめていた。市内での戦闘こそ起きていないが、爆音や銃声は響いてくる。サイゴンの近郊ではまだ戦闘が続いていたのだった。
ほんのわずかな睡眠で原稿を書き続けた私が改めてみた街は前夜とは明らかに異なる部分も大きかった。まずは市街の上空を深夜から未明まで飛び回っていた米軍のヘリコプターがもう消えうせていた。明け方まで赤や黄のライトをホタルの光のように点滅させた多数のヘリがもう姿を消していた。
ヘリの発着の主拠点だったアメリカ大使館の白亜のビルもすでに静かになっていた。最後の主だったグラハム・マーチン大使も明け方には国外に出たという。長かったアメリカのべトナム介入も完全な終止符が打たれたわけだった。最後の最後は支援してきた当の南ベトナム政府からも、停戦交渉への虚しい期待からとはいえ、全面撤退を求められるという歴史の逆説でさえあった。
ちょうど10年前に完全な戦闘部隊を南ベトナムに上陸させ、正面からの支援を進めたアメリカは「共産主義と戦う」とか「自由民主主義を守る」という政策の下にベトナム共和国という国家や社会を全面的に支えてきた。やがては米軍を撤退させ、南ベトナムに不利なパリ和平協定を押しつけた。だが最悪の場合にはアメリカがまた軍事的に再介入して北ベトナムの軍事侵攻を防ぐとまで約束していた。だがその約束の主のニクソン大統領は任期途中で辞任に追い込まれた。
残された南ベトナムの政府や国民はどうなるのか。共産主義の北ベトナムと断固として戦うことこそ自由や繁栄への道だと説得され、みずからもそう信じて国や社会を運営してきた南ベトナムの大多数の人たちはどうなるのか。
支局の窓からよくみえるフランス文化センターもつい数時間前まで臨時のヘリポートとして多数の人影が延々と連なっていたが、いまはもうすっかりヘリも人間も姿を消していた。このビルの屋上からは南ベトナムの政府や軍の要人たちが脱出していた。当然ながら革命側がサイゴンを制圧すれば、長年の敵として懲罰を受けることへの恐れからの国避難だった。その種の要人たちの動向についても情報が多々、入ってきた。
「死守」を誓った要人たちの国外脱出劇と、70人の日本人がサイゴンに「残留」した背景
「サイゴンを第二のスターリングラードにして死守する」と豪語していた元副大統領のグエン・カオ・キ将軍は29日午前に国外へ避難していた。同じチュー政権で参謀総長だったカオ・バン・ビエン将軍も、外務大臣だったチャン・バン・ラム氏も、みなサイゴンから姿を消した。北側との停戦交渉のために成立したズオン・バン・ミン政権の幹部たちはさすがにほとんどが残っていたが、ほぼ唯一、新参謀総長となったビン・ロック将軍は例外だった。同将軍は新任務に就いてすぐの29日午後、国営サイゴン放送を通じて、南ベトナム軍全体に向けて「断固、戦闘を続けよ。私もともに戦い、命を捧げる」と演説した。だがその直後に自分は米軍ヘリの発着地点に向かい、サイゴンを離れたのだという。
しかしその一方、政治家や軍人のなかでも、この人が、と驚くほど粛々としてサイゴンに残った人物たちもいた。人間の究極の進退というのは、表面だけの言動では本当にわからないものだと実感させられる実例にその後のサイゴンで何度も遭遇した。
この4月30日早朝という時点でサイゴンには合計150人ほどの日本人が残っていた。そのうちの70人ほどは前日のアメリカ主導の全面撤退への便乗を試みた。日本大使館は事前にアメリカ大使館に緊急ヘリの座席の一部を日本人用として確保する要請をして、イエスの返事を得ていたという。
人見宏日本大使も「最後の場面でアメリカにお願いをするというのは残念です」などともしてはいたが、他に方法はないというのが現実だった。
だがアメリカ大使館への要請もその大使館自体が大群衆に押しかけられていたために円滑にはいかなかった。日本大使館の代表の外交官が連絡のためにアメリカ大使館を訪れると、大混雑のなかで、その外交官も米軍ヘリに押し込まれるように乗ってしまい、国外に出て、本来の使命を果たせなかったという実例もあった。結局、最終段階での日本人避難希望者の70人ほどは日本大使館の指示で米軍へりへの搭乗を試み、バスに乗って市内の何か所かの集合や乗畿の地点に出向いたが、どこでもへり搭乗はできなかった。その結果、サイゴン残留となってしまった。日本大使館の館員たちも同様だった。
結局、日本人のなかで米軍ヘリにうまく乗ったのは毎日新聞の徳岡孝夫、鈴木静夫、加藤敬の3記者だけのようだった。ともにヘリに乗ると述べていた升岡忠敬記者は直前になって自分自身の判断でサイゴンに残留したことが後でわかった。脱出に成功した3記者はアメリカ大使館や外国記者団の撤退の動きを正確に把握して、その計画に密着していたから予定通りに動けたのだといえよう。3人はサイゴン沖にいたアメリカ空母のミッドウェーを経て、第七艦隊の旗艦ブルーリッジに移っていた。徳岡記者はすぐにブルーリッジの艦内からサイゴンからの脱出と首都の最後を描く迫真の記事を送っていた。
サイゴンの市街はなお何千、何万という市民が徒歩で、車で動き回っていた。大半が米軍ヘリに便乗して脱出ことに失敗した人たちだった。そんな群衆はなお北ベトナム軍の突入を恐れて、サイゴンの河岸に停まった種々の船舶に乗り込んで外海に出ようとする動きをもみせていた。市街にはなお公式には全面的な外出禁止令が出ているはずなのだが、
市民たちはまったくそれを無視して、避難、脱出を必死で図るのだった。軒並みにヨロイ戸を降ろした商店街を血眼になった市民がなお駆け回るのだった。
だがこの大混乱のなかでも、一つの物語が終わるような、妙に白けた空気が広がるのを私は感じていた。サイゴンを首都とする政府も軍隊も、もう機能しなくなって、瓦解といえる状態になったのだ。
私は街のそうした状況を再び車を走らせて、各拠点で観察した後、また支局に戻った。
歴史的転換を報じる記者に生まれた「使命感」と「深い悲しみ」の正体
そして支局の窓から改めて騒乱の街路を眺めるうちに、自分でも驚くほどの重苦しい感情に胸が圧せられた。音もなく降る雨の街の終焉とも呼べる光景から私の胸を襲ったのは間違いなく悲しみだった。
世界を震撼させたベトナム戦争がいま目の前で終わりを告げる。一つの国が、政府が、そして社会が崩れ去る。一方、ベトナムの民族や国家の独立を目指して闘争を続けてきた側が完全な勝利をおさめる。そんな歴史の転換を目前に見て、日本の読者に向かって報道できることは、記者としては充実感そのものを感じた。我を忘れるほどの没頭であり、熱中だった。独立闘争を進める側に単なる独立や解放だけでばなく共産主義革命という強烈な政治の傾きがあるにせよ、ベトナムが国家として民族として自立を目指すという点には確かに大義と呼べる輝きさえあった。私には闘争のそんな本質をも意識して、その歴史的な闘争の終結を第一線で詳しく報道できることへの喜びさえあった。
だがそれでもなお私が3年余り、慣れ親しんだ社会が砕け散るのは、たまらなく悲痛な光景だった。曲がりなりにも一つの国家が同じ民族とはいえ外部から攻撃してくる軍隊によって破られ、葬り去られるのだ。私自身が人間として交流し、共感してきたふつうの人たちの集団が根本からその基盤を否定され、崩される。アメリカや南ベトナム政府をとくに支援したわけでもない、ごくふつうの市民たちまでが悲鳴をあげて逃げまどう。この事象に私はまぎれもない悲しみを痛いほど感じたのだった。
そんな感情がジャーナリストとしての客観性とか平衡感覚を崩しがちな危険はよくわかっていた。それでもなお自分自身の内部にわいてくる悲しみや同情を抑えつけることはできなかった。
(その49につづく)
■歴史を深く知るためのFAQ
Q1. ズオン・バン・ミンとはどのような人物ですか?
A.ズオン・バン・ミンは、サイゴン陥落直前に就任した南ベトナム最後の大統領で、流血を避けるため無条件降伏を宣言し、政権の幕引きを担いました。
Q2. グエン・カオ・キとはどのような役割を果たした人物ですか?
A.グエン・カオ・キは、強硬な反共主義で知られた軍人・政治家ですが、サイゴン陥落直前には国外へ脱出し、体制崩壊の象徴的存在の一人となりました。
Q3. なぜ南ベトナム政府は急速に崩壊したのですか?
A.パリ和平協定後の米軍撤退による軍事支援の低下に加え、士気の低下や指導層の混乱が重なり、北ベトナム軍の進攻に対抗できなくなったためです。
Q4. サイゴン陥落直前の「脱出劇」はなぜ起きたのですか?
A.フリークエント・ウィンド作戦によって米国が関係者の緊急退避を進めたため、政府要人や外国人、市民が一斉に脱出を試み、大混乱が生じました。
Q5. ベトナム戦争は国際政治的にどのような意味を持ちましたか?
A.ベトナム戦争は、米ソ冷戦の中での代理戦争として、アメリカの対外政策の転換(軍事介入への慎重化)や、国際世論に大きな影響を与えた重要な歴史的事件です。
■ シリーズ・アーカイブの紹介
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
トップ写真)South Vietnamese board barges at Saigon Port, Fall of Saigon, Vietnam
出典)GettyImages / Nik Wheeler / 寄稿者


















