ベトナム戦争からの半世紀 その49 戦闘の終わり
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
■本稿のポイント
・サイゴン陥落直前、ズオン・バン・ミン大統領が戦闘停止と政権移譲を呼びかける声明を出し、南ベトナムは事実上の無条件降伏に至った。
・北ベトナム側はこの声明を降伏と認めず進軍を継続し、大統領官邸占拠後に正式な降伏声明をズオン・バン・ミン大統領に読み上げさせて戦争終結を確定させた。
・筆者は終戦の実感の乏しさを感じながらも、歴史的瞬間である北軍のサイゴン突入を取材するため現場へ向かった。
1975年4月30日、サイゴン陥落当日、ズオン・バン・ミン大統領が戦闘停止を宣言し、南ベトナム政府は崩壊へ向かった。市内は混乱と不安に包まれ、北ベトナム軍の進入が目前に迫っていた。現地でその瞬間を目撃した筆者(毎日新聞サイゴン支局長)は、歴史的終結を伝える使命と国家消滅への複雑な思いを抱きつつ、その瞬間を見届けるため街へ向かった。本記事は、その過程を記録したものである。(Japan In-depth編集部)
4月30日午前10時すぎ、毎日新聞支局のラジオから重苦しい声が流れた。
「民族和解を深く信じて、ベトナム人のこれ以上の血を無益に流さないために・・・」
つい2日前に大統領に就任したばかりのズオン・バン・ミン将軍の独特の低く、ゆったりとした声だった。私がベトナム語でわからない部分はロック記者が手際よく英語に訳してくれた。家族をサイゴン市内に避難させた彼はこんな緊急時にもきちんと支局に出勤して、私の取材や報道を助けてくれていた。秘書兼助手のアンさんも通常通りに出勤していた。彼女は支局に近いツド―通りの有名な洋服店の娘で、英語が上手だった。
「私は大統領としてベトナム共和国軍のすべての将兵に対して、一切の戦闘行為を停止して、現地点にそのまま留まることを命令する・・・」
ミン大統領の演説はもの悲しい抑揚で続いた。戦闘の停止命令だった。南ベトナム政府側が一方的に軍事行動を止めるという命令であり、宣言だった。演説はさらに続いた。
「われわれは革命政府側に対してもすべての射撃、砲撃を止めることを要求する。現在、われわれは政府の実権を移譲することについて討議するため、革命政府側代表との会見を待っている」
戦闘を一方的に停止して、政府の実権を敵方に譲り渡す。この宣言はふつうに考えれば無条件降伏である。
「南ベトナム政府の降伏!」
同時にベトナム戦争の終わりをも意味する。
私はテレックスに飛びついて、この歴史的なニュースを東京に送った。
ミン大統領の戦闘停止の命令は何度も何度も繰り返して放送された。そのうち参謀次長のグエン・フー・ハン将軍が全軍への戦闘停止命令をより具体的に言明し始めた。同時にハン将軍は革命軍側の司令官とすぐに接触して、相互の停戦の実施を進める意向だとも明確に言明していた。ハン将軍の上司のはずだった新任のビン・ロック参謀総長は前述のようにすでに国外へ脱出していたのだ。
遠く近くに響いていた銃声や爆発音が少しずつ弱まっていった。静けさの輪が少しずつ、だが着実に広がっていった。
ベトナム共和国政府の降伏、革命勢力たる北ベトナムの完全勝利、ベトナム戦争の終結――歴史に残る終焉がこんな形で起きたのだ。私はなにかもどかしさを覚えた。ベトナム戦争の終局という歴史的な出来事の展開の重圧が実感として伝わってこないのだ。
だが少なくとも1955年からの20年間、ベトナム共和国という主権国家として国際的に認知されてきた国が崩れ去り、その存在を否定されてしまったのだ。日本もこのベトナム共和国、つまり南ベトナムとは正規の国交を樹立し、緊密な関係させ保ってきた。そしてなによりも超大国のアメリカがフルにかかわってきたベトナム戦争の終結だった。
ミン大統領のこのときの声明を私たちは無条件降伏だと解釈した。報道もその趣旨だった。全世界の他のメディアも同様だった。全体としてこの解釈は正しかったといえる。ただし、厳密には南ベトナムと戦う北ベトナム側はこのミン大統領の声明を降伏とは受け止めなかった。「一方的な停戦の呼びかけ」とみなしただけで、その呼びかけを拒み、全軍になお進撃を命令し続けていたのだ。
北べトナムにとっての敵の真の降伏はミン大統領の声明から約2時間後だった。北ベトナム正規軍の戦車隊が南ベトナムの大統領官邸になだれこみ、ミン大統領を捕虜にして、放送局に連行したうえ、北側が作成した降伏声明を読みあげさせて、初めて「降伏」を認めたのだった。
ミン大統領の戦闘停止命令を記事にして送った後、私はすぐ外に出た。南ベトナム軍が戦闘を止めた以上、北ベトナム軍がサイゴンに入城してくるのは時間の問題だった。両軍の正面からの激突はもうないと判断できた。勝利した革命側の軍隊が敵の首都だったサイゴンに突入してくるとなれば、文字通り、歴史的な出来事である。その世紀の光景をこの目でしかと見届けて、報道したい。私の新聞記者としての興奮はついさきほどの悲しい感慨を押しのけたという実感だった。そして私は街路へと飛び出していった。
雨はほとんどあがっていた。街にはなお多数の市民が動き回っている。ほとんどが明らかにサイゴンからなんとか脱出しようと試みる人たちだった。兵士や警官の姿もあった。南ベトナム政府が発令した全面外出禁止令はなお解消されてはいない。だがその当の政府が崩れ去ったのだ。それでも私は外国人記者用の外出許可証を確かめた。だがそれでも突入してくる北ベトナム軍が正体不明の自動車をみて、いきなり狙撃してくる危険をも考えた。そのため自分の車の窓から日本の国旗がみえるように掲げた。北軍も日本の報道陣とわかれば、攻撃はしないだろうという計算だった。我ながら、なんとなく狡猾な感じのする対応ではあったが、長年の戦場取材で自然と身についた自衛策でもあった。
(その50につづく)
■歴史を深く知るためのFAQ
Q1. ベトナム戦争はどのような構図の戦争だったのか?
A. ベトナム戦争は、共産主義の北ベトナムと反共の南ベトナムの対立を軸に、アメリカなど西側とソ連・中国など東側が間接的に関与した冷戦構造の戦争である。
Q2. なぜアメリカはベトナム戦争に深く介入したのか?
A. 共産主義の拡大を防ぐ「ドミノ理論」に基づき、東南アジアでの影響力維持のために軍事介入を強化したためである。
Q3. サイゴン陥落とは具体的に何を指すのか?
A. サイゴン陥落は、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、南ベトナム政府が崩壊した出来事を指す。
Q4. ズオン・バン・ミンとはどのような人物か?
A. ズオン・バン・ミンはサイゴン陥落直前に就任した南ベトナム最後の大統領で、流血を避けるため戦闘停止を命じた人物である。
Q5. サイゴン陥落後、ベトナムはどうなったのか?
A. 南北ベトナムは統一され、1976年に社会主義国家「ベトナム社会主義共和国」として再編された。
Q6. 日本はベトナム戦争とどのような関係にあったのか?
A. 日本は直接参戦はしていないが、アメリカの後方支援拠点として重要な役割を果たし、南ベトナムとも外交関係を持っていた。
■ シリーズ・アーカイブの紹介
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
トップ写真)戦闘を停止して、軍服を脱ぎ捨てる南ベトナム軍の将兵たち(筆者撮影)
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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