ベトナム戦争からの半世紀 その47 大脱出の狂乱
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
■本稿のポイント
・北ベトナム軍の砲撃下、サイゴン市民は革命勢力を恐れ大脱出し、「人民総決起」は不発に終わり、大使館周辺では略奪や無意味な発砲が起きる無秩序状態となった。
・アメリカの全面撤退は、交渉に望む南ベトナムのズオン・バン・ミン新政権が、北側の「アメリカの介入停止」に応じるため、大使館に撤退を要請したという背景があった。
・北ベトナム側は南ベトナム新政権の停戦交渉を拒否し、「サイゴン政権の解体」を要求するなど、南側を対等な交渉相手とする意思は当初から全くなかった。
1975年4月29日午後、北ベトナム軍の砲撃と米軍ヘリの乱舞の中、サイゴン市街は極度の混乱に陥った。革命勢力が宣言した「人民総決起」は影も形もなく、市民は逆に逃げ惑うばかりだった。残留を決意した毎日新聞サイゴン支局長だった筆者が目撃したのは、大使館周辺の狂乱だけではない。アメリカの全面撤退が、実は南ベトナム政府自身の要請によるものだったという、知られざる政治的真実だった。陥落前夜の現場を、当事者が半世紀を経て綴る。(Japan In-depth編集部)
危機の迫ったサイゴンへの残留を決めると、ふしぎと心が落ち着いてきた。本来の職務の報道活動に集中せねばならないという意欲が改めてわきあがってきた。歴史的な異常事態を迎えたサイゴンの状況を把握し、報道しなければならない。
■残留の決意と報道活動への集中
4月29日の午後、市街は混乱を極めていた。戦闘こそ起きてはいない。だが、至近のタンソンニャット空港の黒煙はまだ広がっていた。北ベトナム軍の猛烈な砲撃の結果だった。サイゴン市街の上空にはアメリカ軍のヘリコプターが乱舞していた。その数はどんどん増えていく。
アメリカ人や外国人記者らの複数の集団が市内の主要ビルに集まりつつあった。ビルの屋上がヘリの発着地点に決められていたのだ。だが、外国人の撤退集団の背後には数えきれないほどのベトナム人が列を成して、続いていた。便乗してなんとかヘリに乗り込もうというわけだ。私はまた車を自分で運転して市内をゆっくりと回ってみた。街路はなお、有効なはずの外出全面禁止令にもかかわらず、人と車でいっぱいだった。どの集団もかなりの荷物を抱え、この街から脱出しようという構えだった。
■皮肉な現実「人民総決起」はなぜ起きなかった?
この点はベトナム戦争の皮肉の一つでもあった。革命勢力は一貫して「南ベトナムの人民をアメリカ帝国主義や傀儡政権の圧政から解放する」と主張してきた。そして戦争のある時点では南ベトナムの一般民衆が必ず決起して南政府を倒し、革命側への支援を明確にする、とも宣言してきた。だが、今のサイゴンの市民たちは革命勢力の攻撃を恐れて、とにかくそこから逃げる、離れるという動きをみせるばかりなのだ。北ベトナム、つまり革命側が必ず起きると宣言してきた「人民総決起」は影も形もないようなのだ。
■脱出拠点を巡る狂乱と首都の無秩序
脱出の最大拠点はやはり、アメリカ大使館だった。その近くまで車を走らせ、外に出て歩いてみたが、大使館周辺は大群衆に囲まれていた。アメリカ側から許可を得たベトナム人の退避者たちが家族を連れて、ぎっしりと集まっていた。本来はアメリカの軍や政府機関で働いたベトナム人を今後の安全のために国外に退避させるという作業だったが、一般のベトナム人までが多数、集まって、大人数となっていた。大使館の門や壁によじ登り、勝手に内部に侵入しょうとする人たちも多かった。だが、その種の違法侵入者は警備の米軍将兵たちが銃を持って、厳しく制限していた。
へリでの緊急避難はその飛行距離は短かかった。サイゴン市自体は南シナ海には面しておらず。海洋までは10数キロほどの距離があった。ただし、大きな川が海と市街をつなぎ、港湾となっていた。だからその港湾近くまでアメリカ海軍の艦艇が多数、接近してヘリで運ばれてくる避難者たちを待ち受けていた。市街でのヘリの拠点はアメリカ側の大使館はじめ、関連のビルの屋上というケースが多かった。ただし、当時のサイゴンには高層と呼べるビルは少なく、せいぜい最高で7,8階の建物だった。そんな建物の屋上にヘリの発着が集中していたのだ。
なかでも目立ったのは、アメリカ大使館にほぼ隣接するフランス文化センターの建物だった。せいぜい、5,6階の古いビルで狭い屋上の上にさらに小さな二階建てほどの塔のような付属施設があり、その施設の屋根に米軍ヘリコプターが降りたってくるのだった。その発着地点は10数メートル四方だった。この文化センターはきわめて古くみえる建物で、市民の多くがなじんでいた。そんな施設が国外退避の拠点に使われることは、直前まで秘密にされていた。
後に判明したのだが、ここからの避難は南ベトナムの政府と軍部の要人が優先されていた。そのフランス文化センターの屋上は毎日新聞の支局の窓からもよくみえた。屋上の塔の狭い屋根にヘリコプターが着陸し、数メートルほどの縄ハシゴを降ろすと、人間が次々と登っていった。小さなアリほどにみえる人間の行列がまだまだ続いていた。後にこの光景の写真はサイゴンからの最後の脱出ということで歴史的な意味さえ持つことになった。その際に多くがこの屋上はアメリカ大使館だったという誤認をしていた。
一方、市内ではアメリカ政府の施設やその関係者の脱出で無人となった建物には一般市民とも思われる多数の人間が乱入して、残された家具その他を奪うという略奪も始まっていた。だが、さらにそれよりもずっと多い人数の市民がとにかく脱出経路を求めて、市街を右往左往するという混雑が一日中、続いたのだった。南ベトナム軍の将兵のなかには、絶望からか、パニックからか意味もなく銃を発射する人間もいた。首都サイゴンはまったくの無秩序になったという感じだった。
■米軍撤退の決定打 南ベトナムからの要請
このアメリカの全面撤退はアメリカ自身が最終的に決めた決断のようにみえた。北ベトナム軍の大部隊がすでにサイゴン周辺に迫り、空港は破壊された危機状態では、もう緊急の撤退以外に方法はないことは自然にみえた。ところが、実際にはそのアメリカ政府の決定の背後には南ベトナム政府がそのアメリカの撤退を求めていたという実態があったのだ。
■北ベトナム側の真意とは、交渉ではなく「解体」要求
前述のようにその前日の4月28日夕方に登場したズオン・バン・ミン大統領の新政権はすべてに譲歩するような姿勢で北ベトナム側への停戦交渉を求めた。南側はすぐにでも軍事抵抗を止めるから停戦をして協議をしようという趣旨の申し出だった。だが、北ベトナム側はその夜のうちに、この申し出を拒み、新たな条件を提示した。簡単にいえば、「アメリカの南ベトナムへの一切の介入の停止」と「サイゴン政権、つまり南ベトナム政権の解体」だった。結局は南側との交渉は一切ないという姿勢だった。それまでに北側はチュー大統領が辞任すれば、交渉に応じるかのような言辞をもみせてきた。だが、その辞任が起きると、さらに南側にとっては厳しい条件を突きつけてきた。要するに、南側を対等な相手として交渉するという意図は当初からまったくなかったわけだ。この姿勢はパリ和平協定の完全な無視ともなる。
しかし、ズオン・バン・ミン政権はそれでもなお交渉への虚しい期待を捨てず、北側のこの最後の要求の「アメリカの介入停止」に応じたのである。新政権のブー・バン・マオ首相が4月29日午前、アメリカ政府に対して、サイゴンのアメリカ大使館の全面撤退を求めたのだ。アメリカ側は独自にもう全面撤退の時機が迫ったという判断を固めていたにせよ、仮にも南ベトナムの政府からの要請は大きかった。
南ベトナム側としてはとにかく必死のあがきだった。徹底して譲歩をすれば、北側はなんとか交渉に応じる可能性があるかもしれないという切ない希望だった。だが、北ベトナム側には南側がどんな譲歩をしても、対等な立場で停戦や和平を交渉するという意思はツユほどもなかったのである。
■最後の記事と「脱出を考えて」という命令
日暮れが近づいてもサイゴン市街の上空でのヘリコプターの乱舞はとまらなかった。
多数のヘリが機体のライトを点滅させながら、昇降し、飛行していた。私は支局に戻り、東京本社あての記事を書き始めた。支局のテレックスはまだ完全に機能していた。見てきたばかりの市内の状況を全体の戦況をも含めて記事にするわけだ。こんな緊迫のなかでもふしぎなほど気分が落ち着いていた。普段よりもすらすらと文章が出てくるのが意外だった。
「戦火はついにサイゴンにまで迫ってきた。サイゴンでは米国の全面撤退が始まった」――こんな書き出しで一気に送り続けると、途中で送信がさえぎられ、東京本社からのメッセージが割り込んできた。
「原稿はもういいから、自分の脱出の方法を考えてください」
窓から外を眺めると、フランス文化センターの屋上ではなお、ヘリの縄バシゴを伝わって、そろりそろりと機内に入っていく人影が黒いシルエットのようにみえた。一瞬、子供のころに見た絵本の1頁を想起した。脱出の機会はもうとうに過ぎていた。
(その48につづく)
■歴史を深く知るためのFAQ:大脱出の狂乱と政治的実態
Q1:1975年4月29日、サイゴン市民は革命勢力に対してどのような行動をとったか?
A1:革命勢力(北ベトナム側)が宣言した「人民総決起」は起きず、市民は逆に革命勢力の攻撃を恐れて街から脱出しようと大群衆となって混乱に陥った。
Q2:アメリカの全面撤退の背後には、どのような政治的実態があったか?
A2:北ベトナムとの交渉に望みをかける南ベトナムのズオン・バン・ミン新政権が、北側の条件「アメリカの介入停止」に応じるため、アメリカ大使館に全面撤退を要請したという背景があった。
Q3:北ベトナムは南ベトナム新政権の停戦申し出にどう対応したか?
A3:申し出を拒否し、「サイゴン政権の解体」を要求するなど、南側を対等な交渉相手とする意思は当初から全くなかった。
Q4: サイゴン脱出の歴史的写真で「アメリカ大使館の屋上」と広く伝えられた場所は、実際にはどこだったか?
A4: 現地にいた筆者の証言によれば、アメリカ大使館に隣接するフランス文化センターの建物で、南ベトナム政府・軍の要人優先の脱出拠点として使われていた。後にこの屋上からの脱出写真が大使館と誤認されて広まった。
Q5:4月29日のサイゴン市街で発生した無秩序な事態にはどのようなものがあったか?
A5:大使館への違法侵入、無人となった建物での略奪、そして南ベトナム軍将兵による無意味な銃の発射などが発生し、首都は無秩序状態となった。
■ シリーズ・アーカイブの紹介
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
トップ写真)米国大使館前に押し寄せるベトナム市民 ベトナム・サイゴン 4月29日





















