【ベトナム戦争からの半世紀】その45 首都への本格攻撃か
執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
■ 本稿のポイント
- 4月29日の衝撃: サイゴン陥落前日、北ベトナム軍が130ミリ砲によるタンソンニュット基地への猛攻を開始。
- 日本人救出作戦の終焉: 基地機能の喪失により、予定されていた日本航空の特別救援機派遣が不可能に。
- 北ベトナム正規軍の実態: 「ゲリラ」のイメージを覆す、ソ連製近代兵器による圧倒的な破壊力。
- 戦火の親子愛: 混乱する路上で幼い娘たちの目を死体から逸らそうとする父親の姿。
【リード文】
1975年4月29日、サイゴン陥落まで残り24時間。首都の玄関口であるタンソンニュット基地は、北ベトナム軍の凄まじい砲火に包まれた。日本人救出作戦の瓦解、威嚇射撃の中での決死の現地取材、激戦地に取り残された現地助手とその家族の救出――。45回を数える本連載は、当時毎日新聞特派員としてその場にいた古森義久氏が、半世紀を経てなお鮮明な記憶と共に綴る、歴史的価値の高い記事です。(Japan In-depth編集部)
1975年4月29日の未明、私はまたまた激しい爆発音で目を覚ました。前日はサイゴン市内はズオン・バン・ミン新大統領の就任式の直後、近郊のタンソンニュット空港への珍しい空爆により大混乱となっていた。北ベトナム側に寝返った南空軍のパイロットたちの空爆で首都圏全体がパニック状態となった。
そんな騒ぎが一段落して、私も毎日新聞支局に近い自分のアパートに深夜、やっとたどり着き、短時間の睡眠をむさぼるように果たして、まもなくまた激しい爆発音で目を覚まされたのだった。
2発、3発、4発……一定間隔でなんと20発までを数えた。前日未明の爆音にくらべて、響いてくる方角は同じでも、衝撃の度合いが明らかに異なる。今回は爆発音のたびに私の住むビル全体が揺れて、ガラス窓がガタガタを音をたてるのだ。そしてなんともいえない無力感、恐怖感が自分のなかにじわじわと広がっていく。
外を眺めると、今回もまたタンソンニュット基地の方向に火の手がみえた。思えば、翌4月30日には日本政府が調達した日本航空の特別救援機がマニラからこの空港・空軍基地に到着することになっていた。だがもうその空港からこれだけの爆発音が響いてくるのだから集中攻撃であることは確実だった。そんな被害を受けた空港施設にもう救援機が着陸できるはずがなかった。日本人救出という日本政府の苦労の末の特別機の準備もあっけなく崩れてしまったわけだった。
しばらくして南ベトナム軍の首都防衛軍の一角に服務するガ少佐が電話をかけてきてくれた。そしてタンソンニュット基地の最新状況を教えてくれた。ガ少佐には毎日新聞サイゴン支局として軍事情報の提供を依頼していた。
「共産軍の130ミリ砲での集中攻撃です。当方の軍用機やその他の空軍施設がどんどん破壊されています。共産軍の歩兵部隊もかなり接近はしているけれど、タンソンニュット基地周辺にまだ姿をみせていません」
ガ少佐はすぐに電話を切った。だがこんな非常時にも重大情報を知らせてくれる彼の誠意がうれしかった。
国営ベトナム通信のトイ記者ともまもなく連絡がとれた。彼も毎日新聞サイゴン支局の長年の情報提供者だった。トイ記者は家族とともにタンソンニュット基地内の軍・政府関係者用の住宅に住んでいた。だから砲撃の状況にはさらに詳しかった。サイゴン市内の親類の家に退避してきて、そこから電話をくれたのだった。
トイ記者の報告では北ベトナム軍の130ミリ砲の着弾は正確をきわめ、軍用機の格納庫、弾薬庫、燃料貯蔵庫、滑走路などを狙い撃ちしてきた。「基地内で着弾を誘導する人間がいたようです。それほど正確な照準だった」とトイ記者は語っていた。
ちなみにこの130ミリ砲というのは北ベトナム軍側でも最も威力の大きな兵器だった。東西冷戦の初期にソ連軍が開発した長距離野砲で、北ベトナム人民軍に供与され、当時の北側では最も近代的といえる兵器だった。文字通りこの大砲の口径は130ミリ、砲身も10数メートルと巨大である。砲弾の射程距離は約30キロ、東京から横浜の距離である。当時の北ベトナム軍の砲火としては最大の破壊力を有していた。
私は同じ北ベトナム軍がサイゴン市街に向けて発射した122ミリ・ロケット砲の破壊の模様をこの2日前の4月27日にも見たが、直径数十メートルの地域がすっぽりと消滅しているという情景だった。130ミリ砲はその数倍ともいえる破壊力を発揮するのだ。
ベトナム戦争というと、当初から革命側はゲリラを主体とする軽武装ばかりで、近代兵器はなく、近代装備の巨大なアメリカ軍と果敢に戦った、というイメージがとくに日本では一般的だった。だが実態は大違い、北ベトナムの正規軍はソ連や中国から供与された130ミリ砲や新型戦車のような近代兵器で重装備していたのである。そしてその代表的な130ミリ砲がついに首都圏への攻撃の先頭に登場してきたのだった。
4月29日の朝、タンソンニュット基地への北ベトナム軍の130ミリ砲の連射はやっと止まったようだった。その実際の被害はどうなのか。私はきわめて高い危険を意識しながらも現場を直接に見たいと思った。サイゴン市内はすでに一般市民の全面的な外出禁止という状態にあった。だが私は外国報道陣向けの表示を貼った乗用車を自分で運転して、大攻撃を受けたばかりのその基地を自分の目でみようと思ったのだ。
ちょうどそんなときに、普段から接触することの多いサンケイ新聞(現在の産経新聞)の近藤紘一記者から連絡があった。これからタンソンニュット基地を取材に行くことを伝えると、彼も同行したいと告げた。二人で乗用車に乗り込もうとすると、UPI通信のレオン・ダニエル、ビル・ライリーの両記者も同行させてくれと頼みこんできた。
計4人が乗った車で同基地のある北を目指すと、市街地は外出禁止令にもかかわらず、交通量が多かった。家財道具を山のように積んだ小型トラック、家族数人を乗せたオートバイ、そして大型小型の軍用車などなど……市街地域に向かってみな疾走に近いスピードで走っていた。まさに戦火が迫ったという感じだった。
タンソンニュット基地内に通じるゲートはどこも鉄条網のバリケードで閉鎖され、目を血走らせた将兵が銃を構えて立っていた。記者章を示しても入れてくれない。その間、基地内ではなお黒煙が上がるのがみえた。なお軍用機やヘリコプターがあわただしく発着する。そして銃撃音までがあちこちから響いてきた。まさに戦場という光景だった。
最後のゲートで私たち4人はなお立ち続け、入場を求めた。兵士たちは頑として応じず、私たちに向かって腕を振り、早く立ち去れと求める。それでも私たちが動かずにいると、何人かの兵士が地面に向けて威嚇の発射をした。
「引っ返えそう。奴らは本当に撃ってくるぞ!」
ベトナム取材の長い年長のダニエル記者が叫んだ。私たちは急いで車に戻り、立ち去った。
支局に戻ると、助手として働いてきたレ・ロック記者からの電話があった。有能なベトナム人の記者だった。ふだんは冷静な彼が切迫した声で告げた。
「私たちの家が危なくなりました。すぐ避難したので、すみませんが、車で迎えにきてくれませんか」
ロックさんの家は同じサイゴン市内でもサイゴン川の向こう側の地域にある。中心部の毎日新聞支局までは直線で5キロほどの距離だった。だがその地域には前日の4月28日未明から革命側のゲリラ部隊が攻撃をかけてきた。主目標はその付近にあるアメリカ政府の国際開発局の倉庫地帯だった。
この攻撃に対して南ベトナム軍はすぐに反撃に出た。激しい戦闘となった。付近の住民にも危険が及んだ。小さな娘さん二人がいるロック記者の家族は逃げられなくなった。ロック記者がまず単独のバイクでサイゴン市街にある義父の家に走って、そこから私に電話をして、助けを求めてきたのだ。
私はすぐに対応し、まずロックさんを拾い、次にサイゴン川を渡って、彼の家に着いた。一家は緊急用の荷物をそろえて待っていた。私が人間と荷物でぎゅう詰めの車を運転し、サイゴン川近くの水田地帯を通り、国際開発局の倉庫地帯を通過した。つい数時間前まで戦場だった地域だった。確かに紫色の硝煙がまだ残っていた。大破された倉庫がいくつもみえた。
「目を閉じて! さあ早く、早く」
ロックさんが突然、幼い二人の娘たちに声をかけ、後部座席にちょこんと並んだ少女たちの頭を抑えて外部をみられないようにした。行手の道路に革命側のゲリラとみられる死体が二つ、むごたらしい形で放置されていたのだった。その無惨な姿をあどけない少女たちにみせたくないという親の配慮だった。戦争での人間の死には慣れてしまったかのように思えるベトナムでも親の情とか思いやりには、やはり変わりがないのだと私はそのとき強く感じたのだった。
4月29日という日のサイゴンはこうしてほぼ戦場のようになっていったのである。(つづく)
■ 歴史を深く知るためのFAQ:ベトナム戦争とサイゴン陥落
Q: ベトナム戦争とはどのような戦いだったのか?
A: 1955年から1975年まで続いた南北ベトナムの統一を巡る紛争です。共産主義の中ソが支援する北ベトナムと、資本主義の米国が支援する南ベトナムの間で戦われ、冷戦時代の象徴的な代理戦争となりました。
Q: なぜ1975年4月30日にサイゴンは陥落したのか?
A: 1973年の米軍撤退後、軍事バランスが北ベトナム側に大きく傾きました。1975年春の最終攻勢において、本稿に記された130ミリ砲などの近代兵器を用いた圧倒的な物量作戦により、南ベトナム軍は崩壊し、無条件降伏に至りました。
Q: 「ボートピープル」とは何か?
A: 終戦後の体制転換や弾圧、経済困窮を逃れるため、小舟(ボート)で命がけで脱出した難民のことです。その数は数十万から百万人以上にのぼり、戦後の大きな国際問題となりました。
Q: この連載「ベトナム戦争からの半世紀」を読み直す意義は?
A: 陥落直前のサイゴンに留まり続けた日本人記者の視点による、極めて稀少な「一次資料」です。第1回から第45回までを通読することで、教科書的な歴史記述では消えてしまう当時の空気感、報道の裏側、民衆の生々しい姿を立体的に捉え直すことができます。
■ シリーズ・アーカイブの紹介
本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。
▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]
写真)CIA職員がベトナム避難民をヘリコプターに乗せるのをサポートする様子(1975年4月29日 ベトナム)
出典)Photo by Hugh Van Es/Getty Images




























