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.国際  投稿日:2026/3/23

ベトナム戦争からの半世紀その46撤退か、残留か


執筆:古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視

 

本稿のポイント

・サイゴン陥落直前、米軍によるヘリコプターでの最終撤退が始まる中、現地の報道現場も一気に緊急避難体制へと転じた。

・日本人記者団にも退避の機会が与えられる一方で、現地に残るか撤退するかの判断は最終的に個人に委ねられ、組織命令と記者としての使命の間で葛藤が生じた。

・筆者は支局長としての責任や現地協力者への義務、そして歴史的瞬間を見届ける使命感から残留を決断し、戦争終結の現場に立ち会う覚悟を固めた。

 

1975429日、アメリカ軍による最終撤退作戦「フリークエント・ウィンド」が発動されたサイゴン。ヘリコプターが飛び交い、市街が混乱に包まれる中、毎日新聞サイゴン支局長だった筆者は、東京本社からの「全員撤退」命令を前に、残留か撤退かの極限の選択を迫られた。先輩記者たちが次々と避難に向かう中、筆者が下した決断とは何か。そして炎天下の街路で交わされた別れとは。サイゴン陥落前夜の緊迫した現場を、当事者が半世紀を経て綴る。(Japan In-depth編集部)

 

なぜ1975429日はベトナム戦争の転換点なのか

 

1975429はベトナム戦争の歴史でも重大な転換点となった。アメリカの最終の全面撤退となった日だったからだ。周知のように、アメリカの軍隊は南ベトナム、さらにベトナム全体から1973年3月には全面的に引き上げていた。その後の2年ほどはアメリカ政府の非軍事の機関や民間団体が規模を縮めたにせよ、南ベトナムに駐在拠点を保っていた。そしてなお南ベトナムの政府機関や軍隊への物質的な援助を続けていたのだ。

 

29日の昼ごろ私は毎日新聞支局に勤務するロック記者の一家をサイゴン市内の同記者の親類に避難させて、支局に戻ると、そこの空気は一変していた。この日は未明に北ベトナム軍の130ミリ砲のタンソンニュット空軍基地への砲撃で目を覚まし、その直後に支局に顔を出した。その時点では日本人の特派員も、ベトナム人の記者も、みな緊迫しきった状態ではあったが、まだそのままの報道活動を続けるという様子だった。

 

私も無謀にもタンソンニュット基地の被害の実情をみようと、基地の入り口まで出かけてみた。だが前述のように基地防衛に当たる南ベトナム軍の将兵に狂ったような勢いで追い返されてしまった。そしてすぐにロック記者の一家の避難にあたったのだった。このわずか2,3時間の後に再び戻った支局は別世界のような混乱状態にあった。

 

サイゴンで何が起きていたのか米軍の最終撤退開始

 

「アメリカが全面撤退を始めたぞ!ヘリを使っての最終避難だ」

 

先輩の鈴木静夫記者が私にそう叫んだ。同記者は本来、タイのバンコク駐在の支局長だったが、ベトナム戦争の激動のために、サイゴンに応援として投入されていた。私よりも数年先輩の記者だった。

 

私はこの事態の急変に衝撃こそ受けたが、いつかはくる暗転だという覚悟はあった。そのアメリカ側の全面撤退の際には大使館筋からベトナム側のラジオをも使って、「ホワイト・クリスマス」のメロディーを流すという暗黙の指令も知っていた。熱帯のベトナムでのホワイト・クリスマスという音楽も奇異である。だれもがギョッとする曲だった。その曲が私が外での取材中にすでに流されたというのだ。

 

日本人記者団にも与えられた撤退の機会

 

支局にいる毎日新聞記者たちはみな緊急離脱の支度をすませていた。アメリカ当局の指示通りに体一つに、手荷物も一つだけ、だった。4月に入ってからこの毎日新聞サイゴン支局には多数の記者が応援にきていた。なにしろ世界を揺るがせたベトナム戦争が大激変を迎えるという事態だったのだ。

 

升岡忠敬(論説委員)、徳岡孝夫(英文毎日編集部)、大橋久利(サンデー毎日編集部)。山本展男(香港支局長)、加藤敬(東京写真部)といった顔ぶれだった。そのうえに前述の鈴木静夫記者がいたのだ。これらの記者はその時点での毎日新聞社内での所属部署は多彩だったが、みな以前はベトナム戦争を取材した体験があった。しかも全員が私よりも先輩の記者たちだった。

 

たとえば升岡記者、徳岡記者はともに私よりも記者歴では10年以上、先輩のベテランだった。升岡さんはサイゴンの常駐記者だった。徳岡さんはテト攻勢の際に当時、駐在していたバンコクから飛んできて、革命側が一時、選挙した古都のフエの戦禍の状況をなまなましく報道して話題を集めた。大橋記者はカンボジアのプノンペンに駐在して、ベトナム戦争の重要な側面を報道した経験があった。

 

こうしたベテランが本来、私一人の駐在だったサイゴン支局に集まっていたのである。それほど大規模な報道態勢だったのだ。思えば、ベトナム戦争が一段落したとの認識からこの年の2月にそれまで2人の常駐記者がいた毎日新聞サイゴン支局は初めて1人体制となり、その1人が新任の支局長となった私だったのだ。だがすでに伝えてきたようにわずか2カ月足らずの間に情勢が急変したわけだ。その大異変のためにサイゴン支局にはまたこれほどの、かつてない人数の記者が集まったのだった。

 

アメリカ主体の最後の全面撤退が告げられた4月29日午後の時点では毎日新聞支局では山本展男記者と大橋久利記者とがすでに国外に出ていた。山本記者の場合、つい前日の28日、最後の民間機に乗って、本来の勤務地の香港へもどっていた。だから全面撤退の日にサイゴンにいた毎日新聞記者は私も含めて計5人だった。

 

危機の迫った南ベトナムにいる日本人の安全をどうするのか。合計150人と目されるうちの報道陣が約40人、日本大使館関係者が30人とされていた。残りの一般の長期滞在者も含めて、大多数は4月30日に到着するはずの日本政府調達の日本航空機で退避することが決まっていた。4月25日の日本大使館での官民合同の集会での決定だった。報道陣の場合、各社1人はアメリカ政府が準備するヘリコプターで最終撤退という合意だった。ところがこの予定はあっさりと崩れた。28日から29日にかけての北ベトナム軍によるタンソンニュット空港への猛攻撃のために固定翼の航空機の発着は一切、不可能となったのだった。

 

こんな危機に直面したアメリカ当局は最後の手段であるヘリコプターの大量動員による緊急避難の実行を決めたのだ。具体的な方法としてはサイゴン市内の多数の拠点からへリコプターで退避者を乗せて、近くの海上にきている種々のアメリカ海軍艦艇まで運ぶという作業だった。

 

その避難対象はまずは官民のアメリカ国民だった。アメリカ大使館の要員からその他の政府や民間の機関のアメリカ人たちがまず優先された。その次にはアメリカ政府機関で働いてきたベトナム人たちが国外退避の道を与えられた。ここには当然、それらベトナム人たちの家族が入るから、対象は膨大な人数となった。同時に南ベトナム政府の軍部をも含めての要人たちも避難の資格を与えられた。いずれも北ベトナム軍がサイゴンを制覇した場合に迫害の標的になりうるという懸念が基盤だった。だから全体として膨大な避難計画だったのだ。

 

そんななかで日本人枠も認められていた。日本大使館がアメリカ大使館に要請し、事前の了解を得た30人ほどの席があったという。それとは別個にサイゴンの外国記者団がアメリカ当局に直接に要請して、これまた非公式にせよ、認められていた一定数の席があった。そこに日本人記者が入ることも可能だとされていた。だから毎日新聞の記者たちもアメリカやその他の諸国のジャーナリストたちとともに、指定された集合地点に向かう準備を始めていた。

 

撤退か残留か、記者たちに迫られた判断

 

「東京本社からはサイゴンにいる毎日新聞記者はすべてこのアメリカ軍が調達するヘリに乗って、国外へ退避せよと指示してきたぞ」

 

徳岡記者が私に向かって、さらりと告げた。重大な指示だった。サイゴン支局長である私は他の部署から臨時の応援できた先輩記者とは立場こそ異なるが、同じ社員だった。この危機状態での「全員、避難せよ」という社命は重くのしかかってくる。会社の命令ならば、それに従うことには疑問の余地はない、というのが普通の考えだろう。

 

4人の先輩記者たちはすでに炎天下の街路へ出ようとしていた。アメリカ側が指定した最初の集合地点へ向かうためだった。だが私はまだ退避の支度はしていなかった。その場で考えこんだ。自分自身が撤退すべきか、残留すべきか、という選択への追い詰められた思考だった。

 

なぜ筆者はサイゴン残留を決断したのか

 

私自身にはまず「残りたい」という強烈な願望があった。なにがなんでも残留したいとさえいえる気持ちだった。これまで3年間も継続して追ってきたベトナム戦争がいよいよ終結を迎えそうだというときに、その歴史的な場面から去ってしまうことなど、記者として、さらには人間として、できるものかという心情だった。

 

さらには「残らねばならない」という義務感、責任感もあった。毎日新聞サイゴン支局の責任者として自分がこのまま去ってしまうことは、あまりに無責任に思えたのだ。決してかっこうをつけた気負いではなかった。支局で働いてくれる女性助手のアンさんやロック記者からもすでに国外避難について相談され、「毎日新聞の支局は残るのだから」と説き、残留を勧めてきた経緯があった。それにこれらの協力者の至近の給料さえ払っていない。

 

そのうえで私は当然ながら残留した場合のこんごのサイゴンでの危険についても考えた。確かに首都サイゴンでの激しい戦闘が起きる可能性はあった。だが同時に南ベトナム政府側は公式に停戦を求め続けている。戦場の情勢をみても、北ベトナム軍が圧倒的に優位にある。南軍がもう抵抗できないという状態も現実の展望内に入ってきた。だからサイゴンでの大戦闘は起きない可能性もあるのだ。さらに北ベトナム側はサイゴン制圧の際には記者団を含む外国人一般を丁重に扱うことを再三、言明していた。そのうえに私は革命政府地区に招かれた際、革命側が発行した身分証明書のような書類をまだ持っていた。

 

残留を決めた筆者、記者たちとの別れ

 

こんな思考を経て私は残留をはっきりと決めた。というよりも前からの判断を確認したともいえた。車に飛び乗って、避難していく毎日新聞の先輩記者たちの後を追った。記者たちは支局から一キロたらずのジャロン通りで米軍バスの到着を待っていた。そこからバスでヘリの飛行地点へ向かうわけだった。照りつける陽光の下で4人があえぐような表情で立っていた。

 

「やはり僕は残ります。まだやることがいっぱいある。第一、支局で働いている現地の人たちへの給料さえ払っていません」

 

みなああそうか、というふうに黙って、うなずいただけだった。こんな切羽詰まった状況では個人の行動は会社の業務命令などというよりも、結局は個人の判断に従うほかない、というような暗黙の認識が存在するかのようだった。

 

「ただ本社に対しては一筆、なにか書いておいた方いいかもしれないな」

 

徳岡記者がぽつりと言った。確かに私たちはみな組織の一員だった。上から下への通達がその通りに実行されなかったら、責任の問題が起きうる。私にもそれがわかったので、取材用のメモ帳を取り出し、その一ページを引きちぎった。その紙を自分の車のボンネットにおいて、思いつくままを書いた。

 

「自分自身の判断で残っても大丈夫だと考え、残留します。支局のベトナム人助手たちへも給料をまだ払っておらず、すぐ退去できる状態にありません。万一の場合、責任はすべて私個人にあり、社には一切、迷惑をかけません」

 

そして冒頭に誓約書と書き入れた。こんな紙切れが実際に新聞社の規則上、あるいは一般の法律上、果たしてどんな効果を持つのかはまったくわからなかった。だが紙片を徳岡記者に渡すと、私の胸のもやもやは風船の空気を抜くように消えていった。

 

私たちは「それじゃあ」と言い合って、別れた。

 

(47につづく)

 

歴史を深く知るためのFAQ:サイゴン最終撤退と残留の決断

 

Q1. 「ホワイト・クリスマス」の放送は何を意味していたのですか?

 

  1. これはアメリカ側が最終撤退作戦の開始を知らせるための暗号でした。フリークエント・ウィンド作戦の発動を合図するもので、通常ではあり得ない季節外れの楽曲を流すことで、関係者にのみ緊急避難開始を伝える仕組みでした。

 

Q2. フリークエント・ウィンド作戦とは何か?

 

  1. 1975年4月29日から30日にかけて実施されたアメリカ軍の最終撤退作戦の正式名称。タンソンニュット空港が使用不能となったため、市内各所からヘリコプターで沖合の米海軍艦艇へ人員を輸送した。アメリカ史上最大規模のヘリコプター避難作戦とされる。

 

Q3. なぜヘリコプターによる避難に切り替えられたのですか?

 

  1. 北ベトナム軍の攻撃によりタンソンニュット空港が使用不能となり、固定翼機の離着陸が不可能になったためです。その結果、米軍は市内各所から艦船へ人員を輸送するヘリコプター中心の撤退作戦へ移行しました。これは都市機能が崩壊する中での最終手段でした。



シリーズ・アーカイブの紹介

本連載は、歴史の目撃者である古森義久氏による貴重なアーカイブです。過去の記事も併せて読むことで、サイゴン陥落に至るまでの緊迫した推移を知ることが出来ます。

 

▶︎ [連載「ベトナム戦争からの半世紀」バックナンバーはこちら]

 

トップ写真)イメージ

出典)GettyImages/ Bettmann




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