[岩田太郎]【憲法より国民に対する責任法で権力暴走の抑止を】~憲法・戦争・経済の国会① ~
(在米ジャーナリスト)
「岩田太郎のアメリカどんつき通信」
安倍晋三総理大臣の祖父である岸信介らが戦前・戦中に唱えた「日満不可分論」を彷彿とさせる日米集団自衛権をめぐり、憲法解釈変更の正当性や合法性で議論が白熱する今期国会。そこで安倍首相が繰り返すキーワードが、「責任」だ。「国際情勢に目をつぶり、従来の解釈に固執するのは、政治家としての責任の放棄だ。責任ある態度かどうか極めて疑問がある」「大きく国際状況が変わっているなかで、国民の安全を守るために突き詰めて考える責任がある」。
集団自衛権について裁判所は「統治行為論」を持ち出し、司法審査の管轄外として逃げる可能性が大きい。それでも行政の長として憲法解釈をひとまず司法に委ねる義務がある安倍首相が、「憲法解釈変更の正当性、合法性についての自身の完全なる確信」という薄弱な根拠で三権分立を否定し、「憲法を守らないことが、憲法を守る責任を果たすこと」との逆説を強弁する背景には、中国の一方的かつ攻撃的な国際法や慣習への挑戦など、現実遊離的な法曹が運用する現行憲法や教条的な法律解釈では即応しきれない切迫した問題がある。
類似事例としては、2012年に米国で「財政問題で連邦政府が停止しないよう、オバマ大統領が機能不全の議会や司法に越権行為を働くことが憲法上の責任だ」と論じられた騒動がある。その際に注目されたのは、「時には憲法違反が米国を繁栄に導いた」とするジョージタウン大学のルイス・サイードマン教授の主張だ。
同教授は、「過去には意図的かつ重要な違憲行為が数え切れないほど存在した」と指摘。「ジェファーソン大統領が1803年に広大な領土をフランスから購入したルイジアナ買収について、ジェファーソンは自身の行為が憲法の定める大統領職務に対する越権だと認識していた。また、リンカーン大統領が1862年に奴隷制廃止を宣言した際、連邦政府に奴隷制を停止する憲法上の権限はないというのが当時の一般的な法的解釈だったし、奴隷制を禁止した1865年の憲法修正第13条は、違憲な手続きで成立した」と解説した。
そもそも米国憲法は13植民地の規約手順に反して成立したもので、「憲法そのものが違憲」だ。同じように帝国憲法を代替した日本国憲法も、連合国最高司令官や日本人エリートたちがトップダウンで押しつけたもので、天皇・国民の発意や総意という手順を踏んでおらず、自己矛盾しており正統性がない。
だが、これらの超法規的行為を違憲として無効化すれば、政治は混乱する。一方、日本国民の安全と国益を守る観点からすれば、エリートによる「違憲」「合憲」の神学的論争が、「憲法残って国滅ぶ」「座して死を待つ」につながる可能性もある。ここでの真の問題は、いみじくも安倍首相が強調する「責任」だ。
国語辞書などによると、「責任」には主に3つの意味がある。(1)任務や義務、(2)失敗や損失による責めを負うこと、(3)違法な行為に対し制裁を受ける負担、である。首相がそれだけ責任を取りたいなら、国民の安全と利益に対する内閣と官僚の責任に関する法律で、命も家族も財産も差し出させ、責任を担保させよう。
もし首相の言に反して、日本が米国の戦争に巻き込まれ、集団自衛権の行使によって国民の生命や財産が損害を受けた場合、責めを負い、違憲行為の厳罰を受けることで責任を取らせる「棄民処罰法」を安保法制より先に、成立させる。
折しも、2005年10月に日米の防衛・外務の担当閣僚(日米安保協議委員会)が作成した「日米同盟未来のための変革と再編」という文書で、集団自衛権について「憲法を前面に出さず、個別の憲法違反の国内法を作って憲法の実体を変えていく」という合意があったことが明らかになった。現憲法の改正を堂々と国民に問えばよいのに、それをしないのは、解釈変更の目的が国民の安全や福祉ではなく、自衛隊による米軍防衛を迫る宗主国・米国のためであることが明白だ。
ここで、安倍政権の狙いである噛み合わない憲法神学論から一歩引き、安保法制議論を、「誰が主体で、誰の国か」という「そもそも論」で再構築すべきだ。米軍が提供する片務的な集団自衛を享受しつつ、独自の作戦的自由がある国軍の個別自衛権で国民の安全を確保し、棄民処罰法で権力の暴走を抑止するのだ。
米国はその存立のため、日本を失えない弱みがある。徹底的かつ一方的に米軍を使い倒せばよい。相手は日本に無差別爆撃を行い、原爆を落とし、戦後日本の弱い立場をさんざん利用した上、地位協定で治外法権さえ持っているのだから。
(その2に続く。シリーズ全3回。第2回は【派遣法で経済格差が拡大するなか中国と戦えるか】~憲法・戦争・経済の国会②~、第3回は「国家による経済統制の岸、企業による経済統制の安倍」)