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.社会  投稿日:2025/12/18

福島の医療が迎える「転換点」:立谷・竹之下両リーダーが遺したもの


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長) 

「上昌弘と福島県浜通り便り」

 

【まとめ】

・東日本大震災以降、福島医療を牽引してきた立谷秀清氏と竹之下誠一氏が相次いで第一線を退く。

・相馬の現実主義を体現する立谷氏、人材育成を重視する竹之下氏。二人の手腕が福島を支えてきた。

・偉大な前任者を引き継ぐ後継者たち。次の世代が彼らの遺産をいかに生かすかが問われている。

 

 福島の医療が転換点を迎えようとしている。東日本大震災以降、この地の医療を牽引してきた二人のキーパーソンが、相次いで第一線を退くからだ。一人は医師で相馬市長の立谷秀清氏、もう一人は福島県立医科大学理事長の竹之下誠一氏である。専門は立谷氏が内科、竹之下氏が外科。二人の退場は、福島医療の行方に少なからぬ影響を及ぼすだろう。

 私は福島の医療支援に関わってきたが、ここに挙げる二人は、実力、人間性のいずれにおいても際立ち、心から敬意を抱いてきた「先輩」たちである。本稿では、その歩みと人物像を紹介したい。

 まず立谷氏である。初めて言葉を交わしたのは、東日本大震災から数日後のことだった。当時、官房副長官を務めていた仙谷由人氏の紹介である。仙谷氏はその際、「私が知る市長の中でも、最も能力の高い一人だ。ぜひ支援してほしい」と語った。

立谷氏に携帯電話をかけると、その実力はすぐに分かった。状況を簡潔かつ明快に説明したうえで、具体的で無駄のない依頼を示してきたからだ。

実際、立谷氏の動きは適切かつ速かった。震災発生からわずか9分後に「相馬市災害対策本部」を設置した。さらに、発災当日の夜の段階で、通常の災害対応に加えて、「棺桶の確保」「仮設住宅用地の確保」「双葉郡からの避難者を受け入れるための住居(空き部屋)の確保」を市役所の職員に指示している。先を見据えた判断と即断力は際立っていた。

このような判断は、相馬市の復興を後押しした。例えば、空き部屋の確保は、後に若手医師の活動拠点となる「星槎寮」の設置につながり、相馬市が多くの医療関係者や支援者を継続的に受け入れる基盤を形づくることになった。

立谷氏の指導力の特徴は、国や県に依存せず、現場を起点に課題解決を進める姿勢にある。立谷氏は「復興したければ、自分たちでやらなければならない。政府や県を批判しても、事態は前に進まない」と繰り返し語り、自らのネットワークを最大限に活用して解決策を講じてきた。その過程で連携した一人が仙谷氏であり、私もまたその輪の中にいた。

竹之下氏と出会ったのは、立谷氏の紹介だった。震災翌年の相馬野馬追前夜祭の席で「優秀な教授がいる。ぜひ連携してほしい」と声をかけられた。

当時、竹之下氏は福島医大の副理事長を務めていた。偉ぶるところがなく、人懐こい柔らかな印象を受けたが、言葉を交わすうちに、確かな実力と自負、さらに強い覚悟を抱く人物であると感じた。

福島県は戊辰戦争後の処理過程で、会津・中通り・浜通りという歴史的背景の異なる三地域が統合されて成立した。その成り立ちもあり、現在に至るまで県全体としての一体感は弱い。浜通りの実力者である立谷氏と、中通りに拠点を置く福島県庁、さらには当時の福島県立医科大学理事長との関係は緊張を孕んでいた。そうした中で、立谷氏や私と真正面から向き合い、「福島の医療を立て直すには外部の力を借りるしかない」と公に語った人物は、当時、竹之下氏をおいて他にいなかった。

竹之下氏のリーダーシップは、組織改革と人材育成の両面で際立っていた。その象徴的な事例が、2020年6月、当時38歳だった坪倉正治医師を、放射線健康管理学講座の主任教授に抜擢した人事である。

坪倉氏は2011年4月、東京大学医科学研究所の大学院博士課程に入学し、私が指導する予定だった。私は坪倉氏を立谷市長のもとに送り出し、「被災地の現場で実際に診療や相談にあたり、その成果を医学研究として結実させるように」と伝えた。

その後、現在に至るまでの14年9ヶ月間、坪倉氏は福島県で活動を続けている。被災地医療と研究を両立させ、顕著な成果を挙げた。2021年3月には、米科学誌『Science』が5ページにわたりその活動を特集している。現在では、原子力災害に伴う健康影響の分野において、国際的にも高く評価される存在となった。彼を育てたのは、立谷氏と竹之下氏の功績の一つだ。

竹之下氏の人材登用は坪倉氏にとどまらない。カロリンスカ医科大学から河野浩二・消化器外科教授(山梨大学卒)、江別市立病院から濱口杉大・総合内科教授(新潟大学卒)、九州大学から松本嘉寛・整形外科教授(九州大学卒)、京都大学から挾間章博・生理学教授(京都大学卒)など、多彩な人材を福島に招いた。いずれも、竹之下氏が自ら見極め、いわば「一本釣り」で登用した人材である。

竹之下氏は、2017年4月に理事長に就任するのだが、それ以前から、実質的に福島医大をリードするようになっていた。彼の「改革」により、福島医大の生産性は飛躍的に向上する。

例えば、医療ガバナンス研究所の調査によると、米国立医学図書館データベース(PUBMED)が定義する「コア・クリニカル・ジャーナル」に掲載された医師一人あたりの論文数は、2009~12年には、国公立大学医学部50校中40位だったが、2016~18年には京都大学などに次ぐ4位に躍進している。坪倉氏をはじめ、竹之下理事長が招聘した教授たちが大きな役割を果たした。

東日本大震災後の福島に立谷氏や竹之下氏のようなリーダーがいたことは幸運だった。なぜ、このような人材が育ったのだろうか。私は、それぞれが育った土地の歴史・文化が影響していると考えている。

立谷氏は相馬市の沿岸部である原釜の出身だ。生家は味噌醤油醸造業を営んでいた。立谷というのは、仙台から浜通りにかけて多い名前で、江戸時代、家祖は廻船問屋を営んでいたという。根っからの「商売人」一族だ。立谷氏が、交渉事が上手いのは、このような背景があるのだろう。

相馬という土地も興味深い。鎌倉時代以来、この地を治めてきたのは相馬家だ。しかし、その立地は厳しかった。強大な伊達家に隣接し、抗争を繰り返さざるを得なかったからだ。相馬家は生き残るために、外部勢力と連携した。古くは佐竹家、次いで石田三成に接近し、徳川の世に入ると譜代大名である本多家、土屋家と誼を通じた。

幕末は、相馬中村藩は小藩ながら巧みな現実主義で生き延びた。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わったものの、戦局が不利と見るや早期に降伏し、徹底抗戦を選ばなかった。

この際、秋田藩との関係は大きかった。幕末の秋田藩主・佐竹義堯は、相馬家からの養子だった。秋田藩は奥羽越列藩同盟に加わりながらも、早い段階で新政府側へ転じている。同藩が屈強な庄内藩や南部藩を引きつけたことは、会津戦争における官軍の損害軽減につながった。こうした動きは間接的ではあるが、相馬中村藩に有利に作用しただろう。

外部勢力と連携し、苦境を乗り切るという相馬の「伝統」は現在も変わらない。東日本大震災の際には、麻生元総理や国際NGO「難民を助ける会」が相馬を支援した。麻生元総理は相馬家の姻戚にあたり、「難民を助ける会」は、相馬家当主の母である相馬雪香氏が創設した団体である。こうした人的・組織的ネットワークを実際の支援へと結びつけたのが、当時の相馬市長・立谷氏だった。立谷氏は平素から、人脈の掘り起こしと拡張に意識的に取り組んでいた。

2023年7月、私は東大剣道部の後輩で、総務省の官僚を務めるN氏を相馬野馬追に案内した。前夜祭に参加した際、N氏は「大臣や国会議員、さらには各地の市長が顔をそろえているのに、知事はもちろん、県庁関係者の姿がほとんど見当たらない」と驚いていた。これは、彼の目には「強い自治体の典型」と映ったという。国から県、県から市町村へと指示が降りてくるのを待つのではなく、自らの判断で必要な相手と直接つながり、周囲を戦略的に「使いこなす」。相馬の自治体運営の特徴が、そこに凝縮されていた。

立谷氏は、仙台一高から福島県立医科大学を卒業後、1983年、32歳で立谷病院(現・相馬中央病院)を開業した。1995年に福島県議会議員に当選し、2002年には相馬市長に就任している。医師としては、きわめて「異色」の経歴といえるが、こうした叩き上げの歩みの中で、実務と現場感覚に裏打ちされた政治力を身につけていった。

その力量が遺憾なく発揮されたのが、東日本大震災からの復興過程である。これらの実績が評価され、2019年6月、立谷氏は全国市長会会長に就任した。人口5万人未満の自治体からの選出は史上初であった。私は立谷氏を、相馬が長年にわたり培ってきた歴史と現実主義の伝統を体現した存在だと考えている。

一方、竹之下氏は鹿児島の出身である。鶴丸高校を卒業後、群馬大学医学部に進学し、卒業後は外科医として県内の関連施設で臨床経験を重ねた。その後、同大学の外科教授候補となったが、教授選に敗れ、1999年に福島県立医科大学第二外科教授に就任している。

竹之下氏の手法で特筆すべき点は、前述した通り、人材の抜擢と育成を重視する姿勢にある。私はこの姿勢が、竹之下氏の故郷である鹿児島が培ってきた歴史的・文化的背景と無縁ではないと考えている。

平野が乏しく、火山灰に覆われた鹿児島は、生き残るために「人材を育てるほかない」という発想を早くから培ってきた。その象徴が、下級武士の間に広まった剣術・野太刀自顕流(薬丸流)を取り入れた郷中教育である。

郷中教育は、単なる武技の修練にとどまらず、「嘘を言うな」「弱い者いじめをするな」「卑怯な振る舞いを嫌え」といった行動規範を若者に叩き込んだ。こうした教育を通じて、鹿児島には独特の美意識と倫理観が形成され、それが人材育成を重んじる土地柄として、今日まで受け継がれている。

一方、鹿児島出身の指導者層が理想とするのは、幕末に西郷隆盛や大久保利通といった逸材を登用し、薩摩藩を強化した名君・島津斉彬だ。現に、竹之下氏と会話すると、島津斉彬の名前がしばしば出る。

鹿児島県と山口県は、明治維新を成し遂げ、近代日本の雛形を形作った。この二つの地域の出身者が、郷土の英雄を尊崇する気持ちは、部外者には想像しがたい。

福島医大の理事長として、出身地や出身大学にとらわれることなく有能な若手を登用した姿勢は、島津斉彬の人材観を強く意識したものだったのだろう。鹿児島県出身者や群馬大学卒業生をことさらに重用しなかった点にも、身内びいきを潔しとしない鹿児島人の美学がにじむ。竹之下氏のもとで福島医大は、まさに「梁山泊」のごとき多士済々の様相を呈し、将来の飛躍に向けた確かな礎が築かれたといってよい。

一方で、リーダー交代は常に困難を伴う。立谷市長の後任には副市長の阿部勝弘氏が、竹之下理事長の後任には副学長で教育・研究担当理事の鈴木弘行氏が内定している。「偉大」な前任者を引き継ぐ立場の重圧は、計り知れない。

本稿では詳述しないが、いずれの後継人事においても、その決定過程では「一悶着」があった。阿部氏と立谷氏、竹之下氏と鈴木氏の間には、少なからず「隙間風」が吹いているとされる。新たなリーダーが、こうした緊張関係をいかに調整し、組織として前に進めていくのか。周囲は静かに、しかし強い関心をもって見守っている。

 相馬の現実主義と、鹿児島に根差す人材育成の思想。立谷氏と竹之下氏は、それぞれの土地の歴史と文化を背負いながら、非常時に力を発揮するリーダーシップを体現した。その時代はいま一区切りを迎えつつある。問われるのは、彼らが残した人と仕組みを、次の世代がいかに生かし、更新していけるかである。

トップ写真:左から筆者、渋谷健司・東京大学医学部教授(当時)、竹之下誠一・福島県立医大理事長、立谷秀清・相馬市長ー2018年7月29日の相馬野馬追前夜祭にて

出典:筆者提供

 




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