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.国際  投稿日:2015/10/1

[林信吾]【“移民”なくしてロンドンなし】~ヨーロッパの移民・難民事情 その1~


 

林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

執筆記事プロフィールblog

イギリス料理というと、どうも国際的に評判がよろしくない。

なんと言うか、食に対する熱意に欠ける人たちであるらしく、有名なフィッシュ・アンド・チップスにしても、魚に下味をつけてからフライにする、ということをしない。

熱した油に、衣を着けた魚の切り身をぶちこみ、同じ油でジャガイモのざく切りを揚げ、これすなわちフィッシュ・アンド・チップスという具合だ。客が自分の好みで、塩と酢を振りかけて食するのである。逆に言うと、塩と酢の味しかしないわけで……。

とは言うものの、ロンドンでは粗食に耐えるしかないのかと言われると、そんなことはない。中華料理、イタリア料理、インド料理が代表的だが、おいしい店がたくさんある。それぞれ本場から料理人が来ているから、おいしいわけだ。

ロンドン中心部のソーホー地区には、ヨーロッパでは最大規模のチャイナタウンがある。かつて香港を植民地としていた関係で、19世紀から、主に港湾の荷役作業のため、中国人労働者がやってきていた。彼らはクーリーと呼ばれたが、これはもともと、インドの被差別民のことであったという。植民地支配を通じて英語に伝播し、さらに中国語に溶け込んで「苦力」と漢字を当てるようになった。

ちなみに、中国武術の代名詞であるカンフーも、もともとは下層労働者の意味で「巧夫」と書く。貧しくて刀剣を買うこともできなかった彼らは、自分の肉体を武器と化する以外に、身を護るすべがなかったのである。

ロンドン・トランスポート(LT)の職員、すなわち地下鉄の駅員やバスの運転手には黒人が多いが、これは第二次大戦後、深刻な労働力不足に対応するため、LTの募集事務所がジャマイカに設けられた、という歴史があるためだ。インド・パキスタン系の移民も、やはり多くは第二次大戦後、旧植民地から労働力を調達する政策に応じる形で、ロンドンに渡ってきた。

しかし時の政府は、彼らがロンドン中心部に大挙住み着く事態を嫌い、ヒースロー空港の近くに多数の公営住宅を建設して、インド系移民を住まわせた。ロンドン西部の、サウソールというこの地区は、今でも街角にカレーの匂いが漂い、サリーを着た女性が行き来している。が、インド料理店はむしろ東部や北部に多い。

イタリア人も結構昔から来ていて、ロンドンの床屋と言えばイタリア人が多いことで有名である。私もロンドン在住中はよく足を運んだが、散髪を終えて家に帰ると、まずシャワーを浴びた。髪の毛が襟からたくさん入ってしまい、気持ち悪かったのだ。これで、手先の器用さを買われてイタリア人の床屋がロンドンで増えたということは、イギリス人の不器用さってどれほどなんだ、などとよく考えたのを覚えている。

ことほど左様に、ロンドンには多彩な移民のコミュニティーが点在しているのだが、この街の歴史は、移民とは切っても切れない縁があるのだ。そもそも紀元前55年、ユリウス・カエサルの遠征を皮切りに、ローマ人が進出し、テムズ河畔に城塞を築いて、ロンデニウムと名付けた。これがロンドンの起源である。

ローマ人は、ケルト系の先住民族を征服して支配を打ち立てたわけだが、最初にローマ軍団を迎え撃った部族はブリトンと名乗っており、こちらがブリタニア、そして現在に至るブリテン(島)の語源となった。そのケルト系諸民族にしても、紀元前9世紀から5世紀にかけて、ヨーロッパ大陸から鉄器を携えて渡来し、石器時代からの住民を征服したとされている。

昨今、中東から戦禍を逃れた難民の受け入れをめぐって、EUが動揺しているが、ことロンドンに限っては、可及的速やかに、多数を受け容れるべきだ、と私は思う。海を越えてやって来た人たちの手で、イギリスという国もロンドンという街も築かれ、発展してきたのだから。

(本シリーズ、続きます)

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