ベトナム戦争からの半世紀 その24 ダナンの陥落

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・1975年3月、北ベトナム人民軍が南ベトナムの戦略的超重要地域であるダナンを侵略。
・軍事力的には申し分なかったものの、ダナンには難民が押し寄せ混乱。
・チュオン将軍の避難も相まって市民は戦意喪失、ダナンは北ベトナムに制圧された。
南ベトナムの首都サイゴンでクーデター騒動が明るみに出た日、北部では軍事拠点として最大の要衝のダナンに北ベトナム軍の大攻勢が始まっていた。1975年3月27日だった。ダナンは人口でも当時の南ベトナムでは首都サイゴンに次ぐ第二の都市だった。そのうえに長年にわたり南ベトナム政府軍とアメリカ軍の最大基地でもあった。
南ベトナムと北ベトナムとの国境に位置する最北端のクアンチ省の南にある古都フエのトアチエン省のそのすぐ南がダナンのあるクアンナム省だった。ダナンは中央政府の直轄市という扱いだったが、事実上はクアンナム省の省都でもあった。南ベトナム全体でもこのダナンを中心とする北部5省は第一軍管区とされ、戦略的にも超重要の地域とされてきた。
ダナンはなにしろアメリカ軍の戦闘部隊が最初に公式に介入した舞台だった。1965年3月、アメリカ海兵隊の将兵がダナンの海岸に上陸したのだ。その時点がアメリカの南ベトナムへの直接の軍事介入の始まりとされた。アメリカ軍はそれ以降、このダナンに最大の軍事基地を建設していったのだ。
それからちょうど10年後の1975年3月、北ベトナム人民軍の大部隊がダナンの攻略を始めた。防御側にはアメリカ軍はもうまったくいない。南ベトナム政府軍も中部高原やダナンのすぐ北の古都フエの陥落で敗走に等しい状態にあった。
南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は全国向けのテレビ演説をして、北軍の進撃に対する徹底抗戦を再び宣言した。とくに北部の最後の拠点ダナンについてはその死守を誓ってみせた。そもそも南ベトナム政府軍にとってダナンは全国でも最大といえる軍事拠点だった。北ベトナム軍の脅威がまず至近となってきた南側の北部5省を防衛する第一軍管区の司令部がダナンにおかれていた。
ダナンは南ベトナム軍の空軍にとっても最大の拠点だった。南ベトナム領内での長年の戦闘でも南側は空軍力の面では常に優位に立ってきた。北側には南の領内で出撃できる空軍機はなかったからだ。だから地上戦闘でも南側の戦闘機、爆撃機が空から北軍の部隊を攻撃できるという側面は大きかった。その南側の空軍力の最大の拠点がダナン基地であり、そこには南側の各種の空軍機が400機もおかれていた。南側の第一空軍師団がダナンに司令部をおいていたのだ。
しかもこの時点ではダナンには南側の地上部隊も合計合わせれば10万を越える将兵が入り乱れて、集まっていた。こうした兵力をきちんと組織すれば、強固な防衛態勢が組めたはずだった。ところがダナンには北部や中部の各地から避難してきた一般住民が大量になだれこみ、ふだんの市の人口50万が100万人にもふくれあがっていた。ダナン空港にはそうした避難民が大挙して押し寄せ、民間航空機を利用して、脱出しようとした。そこには軍人たちも銃を突きつけて民間機に載ろうとした。
この混乱に対してアメリカ政府もダナン地区からの難民撤収の援助を始めた。3月26日、アメリカ政府の国際開発庁(USAID)が米側の民間航空会社の大型旅客機を調達して、ダナン空港からベトナムの民間難民をカムランやサイゴンという他の地域への緊急輸送を図ったのだ。ダナン地区になお残っていたアメリカの民間人は軍属の撤収も兼ねていた。アメリカ政府は民間の輸送船をも多数、調達して、海上からの難民運搬をも実行した。だが皮肉なことに、このアメリカ側の人道主義を掲げた行動が軍事的にはダナンの防衛はもう不可能という印象を南側一般に与え、ダナンの陥落を早めるという一因ともなった。
防衛に当たる南ベトナム政府軍の将兵も多くがこのアメリカ主導の空と海との撤収に割り込むことともなった。ダナン防衛の現地の最高責任者だった第一軍管区司令官のゴ・クアン・チュオン将軍も3月28日にはダナンを離れ、海上の艦艇へと避難したという情報が流れた。チュオン司令官は南軍でも最も有能、最も清廉とされた将軍だった。1968年のテト攻勢では北軍に一時、占拠されたフエの王城奪回作戦の成功で名声を得たい。今回もダナンの死守を第一軍管区指揮下のすべての部隊に命令したいたが、その当事者はまだ大戦闘も起きないうちにダナンを離れてしまったのだ。
北ベトナム軍の主力がダナン市内に突入した3月29日、私はサイゴンで国営ベトナム通信のトイ記者を通じて現地の状況を知った。午後3時ごろダナンに残ったほぼ唯一のベトナム通信の記者はサイゴンの本社に以下のような通信を送ってきたという。
「戦車の音が近づいてくる。あのキャタピラの響きはわが軍の戦車ではない。私が向こう側に捕まるのはもう時間の問題のようだ」
こんな送信の10数分後、同じ記者からまた次のメッセージが入ったという。
「ダナン市内には南ベトナム国旗とともに、仏教徒の旗、革命政府旗、あわせて3種類がひるがえっている。サイゴンは私を見捨てたようだ。さようなら」
ベトナム通信のトイ記者はまた国営サイゴン放送のダナンの放送局長からの悲痛な叫びの通信の内容をも教えてくれた。同じ日のまず午後2時ごろの無線での連絡だった。
「もう終わりだ。私は自殺するかもしれない。手元には手榴弾がある」
その2時間後の午後4時ごろ同じ放送局長からまた無線での送信があった。
「もう市内は安全となった。私も家族とともにみな安全だ。市内にはいたるところに民族和解の仏教徒の旗と黄色い星の革命政府の旗がはためいている。もう心配はない」
この局長の声は最初は興奮、恐怖の口調だったのに対して、二度目は抑えつけたように静かだったという。ダナンの放送局は午後4時までに革命側に占拠され、放送局長は強制されて、この「みな安全だ」というメッセージを送ったというのがサイゴン側の解釈だった。
サイゴンの南ベトナム軍司令部のこの日の発表は苦しい表現を使っていた。
「ダナン市内には共産側の特殊部隊が侵入した。市民にサイゴン側への反乱を呼びかけているが、戦闘はない」
戦闘がないということはダナンが南側の防衛の戦闘がないまま北ベトナム軍に制圧されたことを意味していた。
(つづく)
冒頭写真)塹壕を調べるグエン・ヴァン・チュー大統領
出典)getty images bettman




























