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.経済  投稿日:2025/8/22

日産と東芝――失われた栄光の残響


福澤善文(コンサルタント/元早稲田大学講師)

【まとめ】

・日産と東芝は日本の高度成長の象徴でもあったが今、その姿は見る影もない。

・栄光の記憶にすがり顧客の声を忘れ、経営者の野心だけが肥大すれば、名門でも崩れ去る。

・いま問われているのは過去の失敗をどう記憶し、どう次に生かすか。

 

私の子ども時代、日本の家には必ず東芝の家電があった。冷蔵庫の扉には「TOSHIBA」のロゴが輝き、居間のテレビは家族の楽しい時間を刻んだ。あの赤い文字は、日常と未来を約束する印のように見えていた。1966年の第3回日本GPでポルシェ906を破り富士スピードウェイを沸かせたR380や、1969年に映画化されたサファリラリー優勝のダットサンブルーバードの勇姿、そして街を走る車の中には、そのブルーバードに加えてフェアレディZやスカイラインGTが混じり、日産ファンの心は熱くさせられたものだ。父親世代が口にする「技術の日産」という言葉には、国産メーカーへの誇りが宿っていた。両社は確かに、日本の高度成長と共に歩み、その象徴でもあった。だが今、その姿は見る影もない。栄光は過去のアルバムに閉じ込められ、現実に残るのは工場閉鎖、上場廃止、そして迷走の記憶ばかりだ。

 

日産は2025年4~6月期に営業赤字791億円、最終赤字1158億円を計上した。メキシコのシバック工場は25年度中に閉鎖、追浜工場も27年度中に幕を下ろす予定だ。かつて世界中の愛好家を虜にしたスポーツカーのメーカーは、いまや不採算工場を畳み、足元を立て直すのに精一杯だ。

日産の迷走は一朝一夕に始まったものではない。1953年5月から9月までの日産争議で日産の組合は強固になった。その後、労組トップに君臨した塩路一郎と石原俊社長(当時)との熾烈な抗争が続いた。更に、北米で確固たるブランドを築いていた「DATSUN」は1981年に同社長の決断で廃止され、すべてが「NISSAN」に統一された。この競争力を保っていたDATSUNブランドの放棄は、北米での日産車の売上低迷を招いた大失策だった。

90年代の経営危機では、ルノーの支援とカルロス・ゴーンの辣腕によって再建を果たしたかに見えた。しかしその後は、経営陣の不正支出疑惑、ゴーンの国外逃亡劇と続き、企業の倫理は崩れ去った。現在はエスピノーサ新社長の下で立て直しが試みられているが、社外取締役8名が居座り続ける現体制に刷新の気配は乏しい。それ以上に消費者を魅了するような車が出てこない。日産の歴史は、顧客よりも経営陣の権力闘争に振り回されてきた歴史だ。

一方の、1875年に創業された老舗企業の東芝もまた、戦後の日本を象徴する存在だったが、その輝かしい過去の栄光は無残にも食いつぶされた。洗濯機、冷蔵庫、エアコン、テレビ―「TOSHIBA」製品は高性能でなかなか壊れなかった。だがそのブランドは次第に切り売りされ、白物家電やテレビ事業は中国の美的集団へと渡った。2023年には日本産業パートナーズのTOBを受け入れ、上場を廃止。そして2024年8月、創業以来140年守り続けた芝浦本社を後にし、川崎へと移転した。時の移ろいを無視して変わらないものなど何もないのだろうが、名門企業が故郷を追われる姿を見るのは忍びない。

東芝の転落の発端は2006年のウェスティングハウス社買収だった。原子力事業を未来の柱と見込んだが、その賭けは裏目に出る。2015年に巨額損失が表面化し、2017年には7215億円もの赤字を計上、債務超過に陥った。さらに不正会計問題が発覚し、企業倫理は瓦解した。歴代経営陣――西田厚聰、西室泰三、佐々木則夫――の名は、いまや「東芝解体」の象徴として語られる。かつて誇らしかったロゴを思い出すたびに、私は胸の奥に苦い感情を覚える。

思えば、1980年代には日本型経営が世界から称賛された。現場の声を反映させる「ボトムアップ」が、米国のビジネススクールで成功の秘訣と教えられていた。しかし日産も東芝も、その理念を裏切った。実際は一部経営者の独断専行、顧客を顧みない意思決定、そして責任回避の連鎖。技術や人材はあった。それを生かすはずの経営が、企業そのものを蝕んでいった。

私にとって日産や東芝は、単なる企業ではない。彼らは少年時代の夢であり、生活に寄り添う存在だった。だからこそ、その凋落は痛ましく、まるで古い友を失ったような喪失感を覚える。世界の市場で輝きを放っていた日本の象徴が、内部から崩れていく姿を見せつけられるのは、ただの経営の失敗ではなく、一つの時代の終焉を見るようでもある。

企業は人間と同じだ。誇りと努力によって成長し、慢心と油断によって衰退する。日産と東芝の迷走は、日本の多くの企業にとって「他人事ではない未来」を映している。栄光の記憶にすがり、顧客の声を忘れ、経営者の野心だけが肥大すれば、どれほどの名門でも崩れ去る。

いま問われているのは、過去の失敗をどう記憶し、どう次に生かすかだろう。日産と東芝の歴史は、敗北の物語であると同時に、日本の企業社会に向けられた冷たい鏡でもある。私たちがその鏡を直視できるかどうか――それこそが、未来を決定づける。

 

トップ写真)日産グローバル本社オフィスビル、横浜、日本

出典)Olivier DJIANN/ Getty Images




この記事を書いた人
福澤善文コンサルタント/元早稲田大学講師

1976 年 慶應義塾大学卒、MBA取得(米国コロンビア大学院)。日本興業銀行ではニューヨーク支店、プロジェクトエンジニアリング部、中南米駐在員事務所などを経て、米州開発銀行に出向。その後、日本興業銀行外国為替部参事や三井物産戦略研究所海外情報室長、ロッテホールディングス戦略開発部長、ロッテ免税店JAPAN取締役などを歴任。現在はコンサルタント/アナリストとして活躍中。


過去に東京都立短期大学講師、米国ボストン大学客員教授、早稲田大学政治経済学部講師なども務める。著書は『重要性を増すパナマ運河』、『エンロン問題とアメリカ経済』をはじめ英文著書『Japanese Peculiarity depicted in‘Lost in Translation’』、『Looking Ahead』など多数。

福澤善文

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