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.国際  投稿日:2025/8/26

ベトナム戦争からの半世紀その31 チュー政権、最後の改造内閣


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・1975年4月14日、グエン・バン・チュー大統領は救国のため新内閣を発足。

・しかし、反チュー体制勢力の姿はなく挙国一致の新内閣とはならず。

・一方、この時点では南ベトナム側に国家の存続を期待する見方もあった。

 

 サイゴンの大統領官邸が南ベトナム空軍の反乱パイロットに攻撃を受けてから6日後の1975年4月14日、その同じ官邸ではグエン・バン・チュー大統領の下での新内閣の認証式が催された。官邸のなかの大広間だった。記者団の取材も許され、私も加わった。この官邸にはそれまでの3年間、私は数えきれないほど足を踏み入れてきた。

ベトナム戦争の主舞台の一つとなったこの官邸はサイゴン市の文字通りの中心部にあった。フランス統治時代に建てられ、当初は植民地の総督の公邸だった。南ベトナムが独立してからは歴代大統領の官邸となってきた。全体としての広さは現代の野球スタジアムほどで、ほぼ正方形だった。その内部にある長方形の建物自体は地下1階、地上4階、建物の前方には大きな円形の庭があり、中心に噴水があった。

 

前述のようにチュー大統領は4月4日、長年の盟友だったチャン・チエン・キエム首相の辞任を発表した。事実上は解任だった。北部の要衝ダナンを北ベトナム軍に奪われ、南の上院は指導部交代の決議を採択していた。チュー大統領は国内でのこの政権非難に対処する形で側近の文民で下院議長だったグエン・バ・カン氏を新首相に任命した。その新首相の下での新内閣の結成を公式に大統領によって承認されるのがこの儀式の目的だった。

会場ではチュー大統領がダークスーツに身を固めて正面に立った。すぐ後ろには高齢のチャン・バン・フオン副大統領がステッキをついて控える。閣僚や上下両院の有力議員たちも並ぶ。軍部からも参謀総長のカオ・バン・ビエン将軍、空軍司令官のチャン・バン・ミン将軍らが顔をそろえた。いずれもチュー大統領を支える政治、軍事両面での従来の顔ぶれだった。そこにはチュー体制からは距離をおいてきた勢力の代表たちの姿はなかった。挙国一致の新内閣とはならなかったのだ。

新首相にカン氏が任命されたのはこの式典の10日も前の4月4日だった。だからその新首相、新内閣の誕生のデビューの式典はその時点ですぐに開かれても自然だった。ところがこの緊急時に異常なほど長い時間が経過した。その理由はチュー大統領自身が救国のための挙国一致を目指し、より幅広い分野から政治指導者を新内閣に招こうと努力したことだった。だが軍部でも老練で人望のあるズオン・バン・ミン将軍や、かつて副大統領を務めて、その後も支援者の多いグエン・カオ・キ将軍らの一派も、協力しようとしなかった。仏教徒やカトリック教徒の指導者たちも北ベトナムの共産勢力には断固、反発しながらも、なおこの時点でチュー体制に加わることをしなかった。その理由はチュー政権への反発や不信、より具体的には国家存亡の重大危機にチュー大統領の指導下ではもう対処できない、という認識だったといえよう。

実際に大統領官邸の大広間に集まった新政権の閣僚たちの顔ぶれには新味がなかった。とくに新首相のカン氏がそれまでチュー大統領に忠誠というだけで、あまり特徴のない人物であることが、新内閣全体に迫力を感じさせない原因ともなっていた。それでなくとも認証式の場は暗い雰囲気だった。テレビカメラに照らされる閣僚たちの表情も暗かった。

なにしろ北ベトナム軍の大部隊は中部海岸を怒涛のように南下して、首都圏へと迫っているのだ。アメリカからの緊急の軍事援助も期待できない。南側の新内閣からの新たな政治交渉も期待できない。まさに八方手づまりという感じなのだ。

 しかしそれでもチュー大統領はこの内閣の上に立つ国家元首として演説をした。新しい内閣を「戦闘内閣」であり、「団結内閣」と呼んだ。本来の目的だった「挙国一致」とか「救国」というスローガンはもう使わなかった。そのかわりに大統領が繰り返し口にしたのは「団結(ドアンケット)」という言葉だった。静まり返った大広間にはその言葉がかん高い響きで何回も広まった。

 

 しかしチュー大統領の下での団結とは現状のままでの戦争継続を意味していた。この時点でサイゴン側に身をおく人間にとって北ベトナム側の最終意図はなお不明ではあった。だが明確なのは、チュー大統領が大統領のままで団結という言葉で改めて北側との対決姿勢を保つ限り、北ベトナム軍の大進撃にはさらに拍車がかかるだろう、という予測だった。

 

 その一方、この時点では南ベトナム側になおうまくいけば国家の存続という活路を切り開けるだろうとする見方もあった。私も連日、南側の政府や軍部の要人、さらにはアメリカ大使館の北ベトナム研究の専門家などに話を聞いて回った。それらの当事者の多くはまだ南ベトナム側の対応次第で北ベトナム軍がサイゴンへの大規模な軍事攻撃をかけるという事態は避けられる、という見解を述べていた。そんな見解の内容は以下のようだった。

 ▽南ベトナム軍はすでに半分、近くが壊滅したが、なお残存兵力をサイゴンに集中すれば、相当な防衛力を発揮できる。北側にとっても首都の攻略は莫大な破壊や犠牲を伴い、南ベトナム最大の都市を瓦礫とする恐れがある。

 ▽北側は戦争のこの段階まで南ベトナムの一般住民が立ち上がり、北側を支援する「人民総決起」が起き、「人民が解放勢力を支持する」と宣伝してきた。だが実際に総決起は起きず、南側を軍事力だけで倒す総攻撃となると、「人民の支持」の否定となる。

 ▽北側が南ベトナムの国家や社会を軍事力だけで完全に抹殺した場合、国際公約であるパリ和平協定の全面的な違反や否定となる。北側自身がこれまで一貫して主張してきた「パリ和平協定の順守」という国際的な宣言も虚構だったことになる。

 ▽北側がサイゴン総攻撃という戦略で南側の大都市である首都への徹底した軍事攻撃を続ければ、そこで起きる一般住民の莫大な被害は人道的、外交的に国際的な非難を浴び、南ベトナムへの予期せぬ支援が起きる可能性もある。

 

 以上、まとめてみると、こんな骨子の見解だった。そのいわば楽観的な見解から生まれる提案は南ベトナム側がなんらかの譲歩や妥協の条件をつけて、停戦交渉へと持ち込めるだろう、という希望的な観測でもあった。

 

(つづく)

 

トップ写真) 南ベトナムのグエン・バン・ティエウ大統領(1975

年4月14日)

出典)Bettmann /Getty Images




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