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.国際  投稿日:2025/9/16

ベトナム戦争からの半世紀 その38 停戦の求めは虚しかった


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視

 

【まとめ】

・南ベトナムのフオン政権は、北ベトナムに無条件での停戦交渉を呼びかけたが、北側は拒否した。

・北ベトナムはチュー大統領辞任を交渉条件としながら、フオン新政権も「チューなきチュー政権」と欺瞞的に拒否した。

・北ベトナムは交渉の意思がなく、軍事力で南ベトナムを粉砕する意図だったが、米仏は譲歩を求めた。

 

グエン・バン・チュー大統領の辞任の後を継ぎ、南ベトナムの新大統領となったチャン・バン・フオン氏がまず最初に実行したのは、革命勢力側、つまり北ベトナムに停戦交渉を呼びかけることだった。チュー大統領の下で副大統領を長い期間、務めてきた老練の政治家のフオン氏はもちろん自政権、自国がおかれた危機をよく認識していただろう。

 フオン政権は1975年4月23日、北ベトナム側に対して一切の前提条件をつけない政治交渉の開始を求めたのだ。その際の声明は以下のようだった。

 「ベトナム共和国(南ベトナム)政府は現在の紛争を平和的に解決するため相手側(北ベトナム)との交渉を前提条件なしに即時、再開したい」

 あえて「再開」としたのは南ベトナム政府はそのほぼ2年前にパリ和平協定を結ぶための北との交渉をすでに実行していたからだろう。南政府は今回、この声明に説明をつけた覚え書きを作成し、パリ和平協定を保証した「パリ決議」の署名国のアメリカ、ソ連、フランスなどの各国にも送っていた。そのなかにはパリ和平協定がうたった三派代表による全国評議会の設置に応じてもよい、と明記されていた。この点はチュー大統領は一貫して断固反対の意思を明確にしてきたのだが、フオン政権は大幅に譲歩した形となった。またこの覚え書きにはチュー政権が主張してきた「北ベトナムによる和平協定蹂躙の軍事攻撃への非難」も含まれていなかった。

 この時点での南ベトナム側にはチュー大統領が辞任さえすれば、北ベトナム側は交渉に応じるだろうという目算があった。この期待は北側の公式声明をまず第一に根拠としていたといえよう。その声明の内容はすでに報告してきたが、以下のようだった。

 「アメリカが南ベトナムへの援助と介入を止め、チュー政権が退陣して、その後にパリ和平協定を順守する新しい政権ができれば、その新政権との政治的交渉に応じる」

 この言明を文字通りに読めば、チュー大統領が辞任した後にできた新政権が相手であれば、北側は停戦して、交渉に応じるという意味にとるのが自然だろう。だが現実はそうはならなかった。北ベトナム側はすぐに「いまのフオン政権はチューなきチュー政権であり、交渉はできない」と言明し、交渉を拒否したのだ。「チューなきチュー政権」とは上手な表現である。南側に対して、さらには国際的にもチュー大統領さえ辞任すれば交渉に応じるかのような言辞を表明して、南側がそのチュー辞任に応じると、こんどはフオン政権を「チューなきチュー政権」と断じる。このだますような話法で北側は当面の最大の狙いだったチュー大統領の排除を果たし、さらにフオン政権の退陣をも迫ったわけだ。

 だが後に判明するように、北ベトナム側は最初から南ベトナム政府とは交渉する意図はなかった。あくまで軍事力でその政権自体、国家自体を粉砕する決意だった。その粉砕を容易にするための手段として、南側が結果として抵抗力を弱める大統領辞任というような措置をとるよう欺瞞の声明、言明で相手を追い込んでいったのだ。それにすっかり騙されたのは南ベトナムという国家の悲劇のなかでも、もっとも無惨な失態だった。フオン政権ではこの北側の新たな要求、つまり「チューなきチュー政権」という非難に対して、ではチュー政権での副大統領だったフオン氏がさらに退陣すればよいのだろう、という考えをとるにいたった。屋上,屋を重ねる錯誤だった。

 この錯誤を生む背景にはアメリカとフランスの動きがあった。こうした切迫した過程でフランスの外務大臣が4月22日、パリで北ベトナム政府代表を招き、停戦交渉についての条件を問いただした。この動きを受けて翌23日には南ベトナム駐在のフランスのジャン・メリヨン大使がフオン大統領と二回も会談した。アメリカのグラハム・マーティン駐南ベトナム大使も同様に南政府の首脳たちと協議した

この時点でのフランス、アメリカ両国政府とも南ベトナム政府にさらなる譲歩を求め、北側の要求を満たして、停戦交渉を実現させるという意向だった。そのためにはフオン大統領を辞任させ、北側を満足させる新大統領を選ぶ、という思考だった。だがフランス、アメリカ両国政府の考えはまったく間違っていた。何度も述べるように北ベトナム側にはこの戦争を交渉で終わらせるという意図は最初から最後までまったくなかったからである。南ベトナムという国家の悲劇、惨劇だといえよう。

 他方、フオン大統領は対外的に交渉を求める一方、国内的には挙国一致を訴えた。なお共産側との必死の戦闘継続の必要性をも強調し、国内の団結を求めた。そのためにはチュー大統領に批判的だった勢力や政治家、軍人にも接触し、協力を要請した。だが北ベトナム側から交渉を拒否されたフオン氏の体制下の挙国一致に応じる協力者は出てこなかった。国家の危機はさらに深刻となった。

(つづく)

 

写真)米上院議員ジェームズ・L・バックリー(共和党・ニューヨーク州選出)と南ベトナムのグエン・ヴァン・ティウ大統領 出典)GettyImages/ Bettmann  




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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