ベトナム戦争からの半世紀 その40 サイゴン市街への砲撃

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
【まとめ】
・1975年4月27日未明、北ベトナム軍がサイゴン市内へロケット砲を撃ち込み、ホテルや住宅街で多数の死傷者が発生。
・砲撃は数が限定されており、警告や威嚇の意図が強かった。
・南ベトナムでは停戦交渉に向け、ズオン・バン・ミン将軍を新大統領に推す動きが高まり、議会も承認。
地の底から襲ってくるような衝撃に目が覚めた。サイゴン市内の中心部にあった私のアパートが地盤から揺さぶられたのだ。アパートはサイゴンの市役所や国防省に近いパスツール通りにあるフランス風の古い5階建てビルの2階にあった。闇の中で息をひそめると、数分後、またゴオーンッという爆音が響いた。天井がきしきしと、気味の悪い音を立てた。爆撃、あるいは砲撃にまちがいない。ベッドを離れ、外出の支度を始めると、また大轟音が建物を揺らがせた。
1975年4月27日、時計をみると、午前4時すぎだった。爆音は5回続き、ひとまずおさまった。するとまもなくして電話が鳴った。
「ミスター, コモリ?」
聞きなれたレ・バン・ガ少佐の声だった。彼は南ベトナム政府軍の首都軍管区司令部に勤務する軍人である。それまでのかなりの期間、毎日新聞サイゴン支局への軍事情報提供者として絆を保ってきた。重大事はすぐに知らせるように要請していた。
「共産軍の砲撃です。122ミリ・ロケット砲がサイゴン市内に5発、撃ちこまれました。かなりの死傷者が出たようです。いよいよ首都攻撃の開始かもしれません」
ガ少佐は5発のロケット砲弾の落下地点や被害状況のあらましを要領よく教えてくれた。私にとってはサイゴン市内で体験する初めての砲弾での攻撃だった。報道しなければならない。だからすぐに外に出て、自分で車を運転し、ガ少佐からの情報を頼りに、被害を受けた地域へと向かった。最初の現場はサイゴン川岸の国営マジェスティック・ホテルだった。繁華街の一角にある有名な名門ホテルである。白亜のコロニアルの建物の最上階の7階が無惨に吹き飛ばされていた。屋上に落ちた砲弾が7階へと突き抜け、そこにあったレストランを粉砕し、そこで寝ていた警備の警察官が即死したという。ホテル前の街路も大破していた。
次にみたコンクイン通りの住宅密集街の被害はさらにひどかった。市内中心部に近いこの地域には国家警察本部があった。ソ連製の122ミリ砲弾は国警本部を狙ったのだろうが、命中はせず、その隣接の小さな民家群に落ち、破壊した。30軒もあったと思われる小住宅が根こそぎ壊され、瓦礫となっていた。ベトナムの民家は小さくてもみな石造り、コンクリート造りだが、それがきれいに粉砕されていた。20人ほどの住民が即死したという。ものすごい破壊力だった。
三番目にみた被弾地点はこれまたサイゴン市の中心部に近いサイゴン・マーケット前の街路だった。多数の小規模な小売店が毎朝、早くから食品や小間物などを売る市場を狙ったのだろうか。だが砲弾は市場自体には命中せず、そのすぐ前の大きな通りのコンクリート舗装道路を直撃した。路面はざっくりと削られていた。付近に寝ていたホームレスの傷病兵3人が死んだという。
こうみると革命勢力は明らかに警告や威嚇の意味をこめて、サイゴン市民側の注視を浴びる標的を選んで、砲撃をかけたようだった。しかもまず5発だけに限るという点にも政治的な意図を感じさせた。もっと多くの砲弾を撃とうと思えば、いくらでも撃てる態勢にあったのだ。
この間、南ベトナム政府はフオン新大統領の下で停戦交渉への条件を整えようと必死の努力を続けていた。フオン大統領自身の政権は革命勢力の北ベトナム側から「チューなきチュー政権」と断じられ、交渉の相手にはならないと拒まれた。その結果、南ベトナム側では、その交渉相手になりうるのは、チュー政権とは距離をおき、パリ協定発効後は「民族和解」という標語さえもときには唱えてきたズオン・バン・ミン将軍以外にはない、という意見がまとまってきた。ミン将軍を次の新大統領にするというコンセンサスだといえた。それでなければ、停戦交渉は成り立たないという認識だった。フオン大統領はこの方針を進めるためにみずからの辞任を前提とする積極的な動きを取り始めた。
だが南ベトナムも混乱をきわめているとはいえ、憲法を保つ法治国家である。選挙という手続きも経ないまま、民間にいる人物をいきなり大統領に就任させることはできない。フオン氏が大統領になったのはチュー大統領の副大統領からの法律で決められた昇格だった。もしそのフオン大統領が辞めれば、従来の規則では上院議長が後継者となるのだが、現状ではミン氏しか適切な候補はいないのだ。だからフオン大統領はそのための手順を議会に一任するという道を選んだ。自分が辞任し、後任をミン氏にすることを議会に承認させれば、一応の形が整うという考えだった。
フオン大統領の要請による議会の上下両院合同会議が危機の迫る4月26日、上院会議場で開かれた。5時間にも及ぶ熱気に満ちた討論が広げられた。そして曲折の末に二項目の決議が満場一致で採択された。
1. 議会は現在の緊急事態を鑑みて、大統領がパリ協定に基づく平和を回復するための政策と措置を求めることを積極的に支持する。
2. 大統領はこの任務にとって必要ならば、その遂行のためにみずからに代わる人物を議会の承認によって選出できる。
要するにフオン大統領が辞任し、後任にはズオン・バン・ミン氏を選ぶことを立法府である議会も認める、ということだった。(つづく)
トップ写真:サイゴン市民が米兵の支援を受け、陸路・空路・海路で脱出を図る様子(南ベトナム、1975年4月)出典:Photo by Dirck Halstead / Liaison Agency
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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