米国のニュース砂漠がジリジリ迫る「新聞が消える日」 崖っぷちの報道機関と民主主義の危機

【まとめ】
・米国では「ニュース砂漠」が深刻化。20年間でローカル新聞の約40%が廃刊・合併した。
・日本も深刻な危機に瀕している。新聞業界は、デジタル化の遅れ、情報無償化、広告収入モデルの崩壊、記者クラブ制度など構造的な問題を抱える。
・ジャーナリズムの灯を消さないためには、新聞社のビジネスモデル改革、社会全体での支援、地域における「共創」の視点による持続可能なジャーナリズムのエコシステム構築が不可欠。
「新聞がなくなるかもしれない」 、そんなシナリオが、もはや単なる杞憂では済まされなくなりつつある。
2004年4月、毎日新聞とマイクロソフトの協業ニュースサイト「MSN毎日インタラクティブ」を立ち上げたい際、スポーツニュース分野での協力を依頼していたスポニチの責任者は、挨拶の席でこう言い放った。「スポニチは決してマイクロソフトの軍門に降ることはありません」。また古参の新聞記者は「新聞が無くなる、無くなるって一向に無くならないじゃないか」と。
しかし、Xデーはジリジリと迫り来る。2025年8月度のABC部数(新聞の発行部数を調査・公表する第三者機関によるデータ)は、日本の新聞業界が立たされている崖っぷちの現実を改めて突きつけた。前年同月比で、読売新聞は約44万部減、毎日新聞は約26万部減、朝日新聞も約15万部減と、その減少幅はまさに凄まじい。
「全国紙」とされた朝日、毎日、読売、日経、産経の五紙だけで、年間約98万部、東京新聞3社分に匹敵する部数がこの1年で消えた計算になる。世界一の部数を誇り2001年、「9・11」米同時多発テロ事件発生の年には1031万部の発行部数を誇った読売新聞も、四半世紀で536万部とほぼ半減。読売は1967年に500万部を突破したとされるだけに倍増には34年を要したが、半減にかかったのは四半世紀という事実だ。(参考:MEDIA KOKUSYO)
この危機的状況は、日本だけの問題ではない。
海の向こう米国では、ローカルニュースの崩壊が日本よりはるかに深刻な形で進行している。ノースウェスタン大学メディル・ローカルニュース・イニシアチブが発表した最新レポート『The State of Local News 2025』は、その惨状を生々しく描き出している。このレポートを読み解き、米国の先行事例と日本の現状を比較分析することで、日本の新聞が今、何を学び、何をすべきかを探りたい。
■ ローカルニュースが死んだ国、アメリカ ― レポートが示す衝撃
『The State of Local News 2025』が示す米国の姿は、衝撃的だ。2005年からの20年間で、米国のローカル新聞の約40%、実に3,500紙近くが廃刊または合併により姿を消した。その結果、今や5000万人のアメリカ人が、信頼できる地元のニュースソースへのアクセスが極端に制限されるか、まったくない「ニュース砂漠」と呼ばれる地域に住んでいる。ニュース砂漠と認定された郡(カウンティ)の数は、2005年の約150から、現在は213にまで増加。
日米では新聞の性格は異なる。広大な国土のせいで米国の新聞はより地域密着型。「全国紙」と呼ばれるのは「USAトゥデイ」ぐらいなもの。「ニューヨーク・タイムズ」「ボストン・グローブ」「ロサンゼルス・タイムズ」と紙名が示す通り、紙面そのものは居住地域の新聞しか手に入らないのが、ほとんど。それがゆえにむしろローカル紙の廃刊はダイレクトに「ニュース砂漠」の現れとなる。
アメリカでの新聞の消滅は止まらない。
過去1年間だけでも130紙以上が廃刊し、週に2紙以上のペースでローカルニュースの灯が消えている計算だ。かつては大手新聞チェーンによる大量閉鎖や統合が主な原因だったが、近年は独立系の小規模な新聞社の廃業が増えている。
紙媒体だけではない。発行部数は過去20年で70%激減しているものの、オンラインへの移行も活路とはなっていない。大手100紙のウェブサイトの月間ユニークページビューは、過去4年間で平均40%以上も減少している。かつて地域社会の公器であった日刊新聞のビジネスモデルは崩壊、週7日発行を維持しているのは、もはや全体の5分の1未満となっている。
この崩壊は、ジャーナリストの雇用も直撃している。2005年以降、新聞業界は雇用の75%以上、実に27万人分もの職を失った。過去1年間でも7%減少し、全米39の州では、州内のジャーナリストの総数が1,000人を下回るという惨状だ。
さらに追い打ちをかけるのが、公共放送への政治的圧力だ。2025年7月、米連邦議会共和党は、公共放送社(CPB)への10億ドル以上の連邦予算を撤回することを決議。これにより、NPR(公共ラジオ)やPBS(公共テレビ)のローカル局への連邦資金が完全に断たれた。これらの公共放送局は、特に地方やニュース砂漠地域において、重要な情報インフラとなっており、その電波は全米の郡の90%以上、ニュース砂漠の82%にまで届いていた。この資金停止は、地方における情報格差をさらに拡大させる致命的な一撃となりかねない。
デジタルサイトの勃興は、一縷の望みかと思われた。確かに、スタンドアロン型やネットワーク型のデジタルサイトは増加傾向にある。しかし、その90%以上は都市部やその郊外に集中しており、地方のニュース空白を埋めるには至っていない。むしろ、デジタルサイトが成立しやすいのは、比較的裕福で教育水準が高く、貧困率の低い地域であり、ニュース砂漠とは正反対の特性を持つ。デジタル化は、新たな情報格差を生み出す側面すら内包している。
■ 対岸の火事ではない ― 日本の新聞業界を蝕む構造的危機
米国の惨状を目の当たりにし「日本ではまだ大丈夫」と考える者があるだろうか。冒頭で示したABC部数の激減は、日本もまた深刻な危機に瀕していることを雄弁に物語っている。読売新聞が1年で約44万部、毎日新聞が約26万部失うという現実は、もはや「緩やかな衰退」などという生易しい状況ではない。毎年、著名雑誌が廃刊するような部数の消滅スピードと言える。なぜ、日本の新聞もこれほど急速に読者を失っているのか。米国の事例と共通する要因も少なくない。
1.デジタル化への構造的遅延: インターネットの登場以降、スマートフォンが情報アクセスの中心となり、ニュースの消費形態が劇的に変化したにもかかわらず、日本の新聞社の多くは紙媒体を中心としたビジネスモデルからの転換に苦慮してきた。デジタル版への移行は進められているものの、その収益は紙媒体の落ち込みをカバーするには程遠い。
2.情報無償化の苦境: 新聞を購読し、毎日読むという習慣は過去のものとなりつつある。ニュースはSNSやニュースアプリで無料で、かつパーソナライズされた形で消費されるのが当たり前。新聞社はこの潮流に十分に対応できているとは言い難い上、日本ではYahoo!がすべての情報を無償提供するがゆえ、課金モデルの道筋はまったく見えない。
3.広告収入モデルの崩壊:かつて新聞社の収益の柱であった広告収入は、インターネット広告、特にプラットフォーマー(GoogleやMetaなど)にそのシェアを奪われ続けている。紙媒体の広告価値の低下は、デジタル広告での挽回も難しい状況を生んでいる。
4.再販制度と戸別配達網:新聞の価格維持を可能にしてきた再販売価格維持制度と、全国津々浦々に新聞を届けてきた戸別配達網は、かつて日本の新聞社の強さの源泉であった。しかし、デジタル化が進む現在、この巨大な流通コスト構造が経営の重荷となり、価格競争力やビジネスモデルの柔軟性を削いでいる側面は否めない。早晩消滅する流れにある。
5.記者クラブ制度:閉鎖的とも批判される記者クラブ制度は、情報の同質化を招き、調査報道や多様な視点の提供を妨げているとの指摘もある。これは新聞記者に「選民思想」さえ植え付けている。新聞社や通信社内においてさえ「俺は記者なので営業より偉い」というエゴが常に見え隠れする。こうした姿勢はSNS時代となり読者にさえ透けて見え、これが読者のニュースへの関心低下や、メディア不信の一因となっている可能性も考えられる。
6.日本特有の構造的問題:米国の新聞業界が大手チェーンによる寡占化と効率化(しばしばリストラを伴う)によって延命を図ってきたのに対し、日本の新聞社は、独自の流通・販売システムや雇用慣行を維持しようと努めてきた。しかし、その結果として、変化への対応が遅れ、気がつけば米国と同様の、あるいはそれ以上に深刻な危機に直面している。
新興メディアの登場:インターネットとスマホによる情報の民主化により、新聞でなければ報道不能という領域が激減。記者クラブ制度がありつつも、新聞の優位性は、ほぼ失われたとして良い。
■ 「ニュース砂漠」は日本にも存在するのか…
米国のレポートが示す「ニュース砂漠」は、地理的に孤立し、経済的に困窮し、インターネットインフラも未整備な地方で顕著に見られる。住民は、地域の行政、教育、経済、環境に関する重要な情報から切り離され、社会参加の機会を奪われる。これは、単なる情報不足ではなく、民主主義の基盤そのものを揺るがす深刻な問題だ。
日本では、米国ほど明確な形で「報道機関が全く存在しない地域」は多くないかもしれない。全国紙の支局や地方紙、地域紙、ケーブルテレビ、コミュニティFMなどが、一定の情報網を維持してきた。しかし、それは「砂漠化」の危機がないことを意味しない。
地方紙や地域紙の経営状況は、全国紙以上に厳しい。部数減少と広告収入の低迷は、取材体制の縮小、記者数の削減、支局の閉鎖などを余儀なくさせている。かつて地域社会の隅々まで目を光らせていた報道機能は、確実に弱体化している。これは、米国のような「完全な砂漠」ではなく「報道の質の低下」「取材範囲の縮小」「調査報道の減少」といった形での「見えざる砂漠化」が進行中と見るべきだ。地域の課題が掘り下げられず、行政のチェック機能が低下し、住民が必要とする情報が届けられなくなる。これもまた、地域民主主義にとって深刻な脅威である。
公共放送NHKの存在は、日本におけるセーフティネットの一つと言えるかもしれない。しかし、全国放送が中心であり、個々の地域に密着したきめ細やかなローカルニュースを網羅するには限界もあろう。また、近年の政治的圧力や受信料制度への批判は、NHKが将来にわたって安定的にその役割を果たし続けられるか、不透明感を増している。
■ デジタルは救世主たりうるか、持続可能なジャーナリズムへの道
紙媒体の衰退に対し、デジタルへの移行は避けられない選択だ。しかし、米国の事例が示すように、デジタル化が自動的にローカルニュースの危機を救うとは限らない。むしろ、デジタル化は新たな課題も生み出している。
1.収益モデルの確立:無料ニュースが溢れる中で、質の高いジャーナリズムを維持するための安定した収益モデルをどう構築するか。購読料と広告という新聞のビジネスモデルが崩壊の危機にある中、多くの新聞社が有料課金モデルを模索しているが、成功例は限定的。企業からの庇護により、ジャーナリズムが成り立つ術などはないのだろうか。「トヨタイムズ」の報道版の可能性はあり得ないのだろうか。
2.プラットフォーム依存脱却:ニュースの流通をGoogleやFacebookといった巨大プラットフォーマーに依存する構造は、報道機関の収益機会を不安定にし、編集権の独立性をも脅かしかねない。そもそも新聞業界は、20年前に談合してでも、Yahooへのコンテンツ供給を廃止すべきだった。
3.デジタル格差の是正:米国で顕著なように、デジタルニュースは都市部に集中し、地方や情報インフラの弱い地域には届きにくい。日本でも同様の格差が拡大する可能性がある。
4.フィランソロピー(慈善活動)の拡大:これは米国での新たな動きだが、危機感を共有する財団や篤志家からのジャーナリズム支援が活発化している。NPOメディアの設立や、既存メディアへの助成金提供など、多様な形で資金が供給されている。ただし、その恩恵はやはり都市部に集中しがちという課題もある。
5.公共政策による支援: 米国のいくつかの州では、ローカルニュース支援のための法整備が進められている。例えば、ジャーナリズムへの寄付に対する税額控除や、政府広告の地域メディアへの優先配分などが検討・実施されている。欧州では、プラットフォーマーから新聞社などへの適正な富の分配を促すなどの法整備も進められている。日本の立法府は、報道機関のこの危機にかなり無関心に見える。やはり政治家としては、懐を探りに来るジャーナリストが目障りだという心の持ちようの現れだろうか。
6.市民記者など多様な担い手の出現: 新聞社だけでなく、NPO、大学、独立系ジャーナリスト、市民記者などが、ローカルニュースの新たな担い手として登場している。「市民記者」については、「ハフィントンポスト」、「オーマイニュース」などで一時隆盛が見られたが、プラットフォーマーにより駆逐されたように見える。この是正により、復権が可能とはならないだろうか。
7.エコシステムの確立:日本においても、こうした米国の試みから学ぶべき点は多い。デジタル技術を活用しつつも、地域社会との連携を深め、多様な資金源を確保し、報道の担い手を広げていく。そのような、持続可能なローカルジャーナリズムのエコシステムを構築することが、喫緊の課題だ。
■ ジャーナリズムの灯を消さないために
日本の新聞業界が直面している部数激減は、単なる一産業の衰退物語ではない。それは、地域社会の健全な運営と、民主主義そのものの基盤を支える情報インフラが崩壊しかねないという、国家的な危機である。米国のローカルニュースの惨状は、決して対岸の火事ではなく、日本が進むかもしれない未来の姿を映し出している。
新聞が消えた社会、地域に必要な情報が届かなくなった社会を想像してみてほしい。行政の不正は見過ごされ、地域の課題は放置され、住民は孤立し、デマや誤情報が蔓延する。SNSの隆盛もあり、すでに「一行目しか読めない」国民が培養されつつあるのが日本である。国民の民度以上の政府が誕生することもない。デマや誤情報の上に成り立つ国家像…それは、我々が望む未来では決してないはずだ。
ジャーナリズムとは伝え手が選民思想に洗脳されることなく、陽の目をみない真実にこそ光を与える業務であるはずだ。新聞が守って来たはずの(必ずしもそうではなかった時代もあれど)ジャーナリズムの灯を消さないために、何をすべきか。
1.新聞社自体の変革:過去の成功体験や既得権益に固執することなく、デジタルファーストを徹底し、読者とのエンゲージメントを深め、広告以外の収益源(イベント、データ販売、教育事業など)を多様化する、抜本的なビジネスモデル改革が不可欠だ。現在、すでに不動産業に寄りかかっている社も多いようだが、生き残りのためには、時に痛みを伴う組織再編や、他のメディアとの連携・統合も視野に入れる必要があるだろう。
2.社会全体での支援:ジャーナリズムは、市場原理だけに委ねていては成り立たない「公共財」としての側面を持つ。その価値を社会全体で再認識し、支えていく仕組みが必要だ。米国で広がりつつあるフィランソロピー(慈善活動)による支援や、報道の独立性を担保した形での公的支援(税制優遇など)の導入を、日本でも真剣に議論すべき時期に来ている。
3.地域における「共創」: ローカルニュースの未来は、新聞社だけが担うものではない。地域の企業、NPO、大学、図書館、そして住民自身が、それぞれの立場で情報の発信や流通に関わり、連携していく「共創」の視点が重要となる。テクノロジーを活用し、多様な主体が参加できるプラットフォームを構築していくことが求められる。
米国の本レポートは、厳しい現実を突きつける一方で、危機の中から新たなモデルを生み出そうとする動きがあることも示している。日本もまた、この危機を、旧来のシステムを見直し、より多様で、より地域に根ざした、持続可能なジャーナリズムを再構築する機会と捉えるべきではないだろうか。一介の書き手として、この危機感を共有しつつ、さらに新たなジャーナリズム、報道のあり方については、思考して行きたい。
「MSN毎日インタラクティブ」や、実験的でもあった日経、朝日、読売による「あらたにす」を継続させていたとしたら、日本新聞業界のランドスケープは、まったく異なった姿を表していたに違いない。日本新聞業界は、果たしてこれまでの無策ぶりから復権を遂げることができるのだろうか。




























