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.政治  投稿日:2025/12/3

労働時間規制の緩和は労働者のためになるのか



福澤善文(コンサルタント/元早稲田大学講師)

【まとめ】

・労働時間規制緩和は低賃金と日本の悪しき労働慣行への根本解決にならない

・規制緩和は過去の長時間労働の悪しき慣行に逆戻りするリスクがある

・労働時間延長は労働者の健康を害し、生産性を下げる逆効果になる恐れがある

高市首相が、心身の健康維持と従業者の選択を前提とした労働時間規制緩和の検討を進めるとの報道があった。そもそもは36協定を締結している企業に対して2019年から残業時間の上限が月45時間、年360時間と定められたことに起因する。(繁忙期など特別な事情のある場合でも月100時間未満、複数月平均で80時間以内)経済が停滞する中で、日本企業は今、労働力不足に見舞われている。そこでこの労働時間規制緩和の動きだが、労働者ひとりひとりの労働時間を増やすことで生産性を上げ、目下の労働力不足を補えば日本経済の成長が取り戻せるとい考えなのだろう。しかしながら、それが生産性向上に直結するかどうかは、甚だ疑問だ。

欧米ではこのような残業時間の上限は無い。日本でどうして上限を設けざるを得ないかというと、賃金の低さ、そして日本の労働慣行による。「もう少し働いて賃金を稼がないと生活できない」という声もある。過労死基準を超えてまで働かざるを得ないのは、日本の実質賃金水準が低すぎるからだ。実質賃金が増えないのであれば現状の賃金水準では物価の高騰で生活が苦しくなるのは当たり前だ。賃金を物価の上昇に追いつくレベルまであげれば解決する話なのだが。

給料のアップはベースアップと定期昇給からなる。企業のペースアップは1990年末ごろからつい最近の2022年までゼロが続いた。定期昇給がある企業の従業員にとっては数パーセントの昇給があっても今のインフレには追いつけない。高齢者をいったん退職させて再雇用で給与を下げ、早期退職制度で中高年層を退職させ、一方でその浮いた予算を定期昇給と、賃金レベルの低い新入社員の大量採用に充当すれば、企業としての人件費は変わらない。しかも、正規社員の一部を非正規社員に入れ替えれば、総人件費は更に減る。ベースアップが無い限り、全体の給与は上がっていない。

連合は2025年の春闘で5%の賃上げを達成し、2026年も…、と鼻息は荒いが、連合に加盟している企業の労働者は日本の全労働者の16%に過ぎず、そのほとんどが正規労働者だ。しかも5%のうち2%が定期昇給で、3%がベースアップでは、近年のインフレ率3%から考えると実際のベースアップはゼロということになり、昇給率は2%に過ぎない。

労働者の実質賃金はなかなか上がらない。それなら労働時間を長くすれば、労働者は、より多くの賃金を稼げるかもしれないが、過労死基準を超えてまで生活費を稼がなければならない社会にして良いものだろうか。そもそも上限を設けなければならなかったのは、残業を前提とした日本のこれまでの労働慣行の弊害に対処するためのものだった。必要があっての残業は仕方ないが、日本企業には不必要な居残りが多かった。一旦かけられた労働時間規制を緩めると昔の日本企業の悪しき慣行に逆戻りするリスクが発生する。

よく言われることだが、アメリカの企業で働く人たちは自分の仕事が終われば、すぐに帰宅する。アメリカの企業ではトップになればなるほど早朝から深夜まで労働時間が長い人が多いが、平均的な労働者であれば、自分の仕事が終われば定時で帰宅する人が多い。しかしながら典型的な日本の企業の場合は、自分の仕事を終えても上司が残っている限り、上司の目が気になってなかなか帰宅できないという特殊な事情があった。

皆で助け合って仕上げるという前提で働くというのが、これまでの典型的な日本企業で働く労働者の姿だった。従って、自分の仕事を終えても他が仕事を終えられない場合は手伝わざるを得ず、帰宅できなかった。しかも上司の心証を良くしなければならないという人間関係が入り込んできた。その結果、労働時間を決めても守れない社会慣習が日本企業の根底にあった。電通の女性新入社員が過労自殺をしたのは2015年12月で、これをきっかけに労働時間に規制のメスをいれたことは当時の政府の英断だった。

労働時間緩和のニュースを聞いて、筆者がニューヨークで勤務していた時代に無意味な残業を強いた上司の「仕事の結果は、それにかけた時間に比例する」という迷言を思い出した。おかげで出社は朝8時、帰宅が深夜1時という日が続いた。その上司は夕方から観劇に出かけて、日付が変わるころにオフィスに戻り、タクシーで帰宅するという有様だった。大学の授業で生徒にこの話をしたら、「そんなに過酷な状態ならば、どうして転職しなかったのか」と首を傾げられた。これは日本企業で働く社員にとって転職がほとんどなかった時代の話だ。自分の仕事を終えたら帰宅できる環境は必要だ。最近の日本企業では人間関係が希薄になってきていると聞くが、上司や周りの顔色を見て帰宅できずに長時間労働に服しているよう人が未だいるのであれば、労働時間規制の緩和は逆効果になる。労働時間規制の緩和は、労働者の労働時間を長くし、それが彼らの健康を害する原因となるかもしれない。残業代を稼ぐチャンスと捉えて労働時間の延長を歓迎する人もいるかもしれないが、その結果、身体を壊したのでは、元も子もない。更に、生産性を上げなければならない今の時代に、逆に生産性を下げる事態になるリスクもある。

トップ写真:とにかく日本のビジネスオフィスで働くミーティング水平の写真素材

出典:YinYang/Getty Images




この記事を書いた人
福澤善文コンサルタント/元早稲田大学講師

1976 年 慶應義塾大学卒、MBA取得(米国コロンビア大学院)。日本興業銀行ではニューヨーク支店、プロジェクトエンジニアリング部、中南米駐在員事務所などを経て、米州開発銀行に出向。その後、日本興業銀行外国為替部参事や三井物産戦略研究所海外情報室長、ロッテホールディングス戦略開発部長、ロッテ免税店JAPAN取締役などを歴任。現在はコンサルタント/アナリストとして活躍中。


過去に東京都立短期大学講師、米国ボストン大学客員教授、早稲田大学政治経済学部講師なども務める。著書は『重要性を増すパナマ運河』、『エンロン問題とアメリカ経済』をはじめ英文著書『Japanese Peculiarity depicted in‘Lost in Translation’』、『Looking Ahead』など多数。

福澤善文

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