理念と市場のねじれ——漫画『ブスなんて言わないで』に見るルッキズム社会の現在地

中川真知子(ライター/インタビュアー)
連載:中川真知子のシネマ進行
【まとめ】
・2005年の『人は見た目が9割』のヒット以降、外見重視の風潮から自分軸へと価値観が変化し、反ルッキズムの考えが広まった。
・漫画『ブスなんて言わないで』は、反ルッキズムの理念は正しくても、企業のマーケティングでは外見依存が続く現実を描いている。
・作品は理想と現実の二項対立ではなく、市場の論理を認めつつ個人の価値観を変えていくという、両立の姿勢を示した。
2005年、『人は見た目が9割』という書籍が大ヒットした。作者の竹内一郎氏が語るのは、美醜そのものではなく、視線や立ち居振る舞い、声のトーンといった非言語的要素が人の印象を左右するという話だ。
それでも、「見た目が9割」という挑発的なタイトルにドキッとした人は多かったはずだ。当時は雑誌もテレビも「モテ」が価値基準のように扱われ、外見が人の評価と直結しているような空気が強かった。筆者もこの本を“モテ指南書”だと思い込んで手に取り、肩透かしをくらった記憶がある。それほど外見への注目度が高かったのだ。
しかし十数年が経ち、価値観は大きく変わった。他人の評価軸である「モテ」から、自分をどう受け入れ、どう愛するかという「自分軸」へとシフトした。反ルッキズムが広がり、外見を揶揄することはもちろん、褒めることすら慎重に扱われるようになった。
そんな時代の転換期に生まれたのが、2021年の漫画『ブスなんて言わないで』(とあるアラ子著)だ。ブスと美人、それぞれが抱える生きづらさを真正面から描いた本作はSNSで大きな支持を集め、著名人も注目した問題提起作品である。約4年の連載を経て完結したこの作品を手に取ったとき、筆者は作者が広げた大風呂敷の“着地”に深く共感した。
■理想と現実のあいだで揺れ動く問い
『ブスなんて言わないで』は、本人の努力ではどうすることもできない外見上の悩みや、そこから生じる自己肯定感の低さがテーマだ。
ブスを理由に存在すら否定されてきた知子(ともこ)と、美人ゆえのトラブルに長年苦しんできた梨花(りか)。2人は異なる角度から反ルッキズムに挑むが、その主張は最後まで噛み合わない。
ありのままの自分を受け入れる社会を目指す梨花は女性たちに「自信を持て」と語りかける。しかし、外見を理由に差別されてきた知子は、個々の意識ではなく“社会構造”の変化を求めている。
理想と現実、構造と主観。その間で揺れ動く生々しい声が読者の心を動かした。
筆者も全ての話に感情を揺さぶられ、涙が込み上げる瞬間もあった。
しかし同時に、「反ルッキズムは綺麗事で終わってしまうのではないか」という問いが、頭から離れなかった。
■理念は正しくても、市場は別の法則で動く
もちろん、反ルッキズムそのものの理念性は揺るがない。外見による差別をなくすべきだという主張は正当であり、社会としても進むべき方向だ。
だが、企業のマーケティングとなると話は別である。
消費者の意識が変化しても、購買行動はむしろ過去の価値観に引きずられがちだ。
というのも、反ルッキズムを掲げてマーケティングを刷新した企業の多くで、業績が軒並み落ち込んだからだ。SNSでは賞賛されても、実際の購買には結びつかなかった。
筆者が留学時代によく通った Victoria’s Secret(ヴィクトリアズ・シークレット)は象徴的だ。
2021年、同社はエンジェルモデル文化を廃止し、多様な体型や経歴の女性を起用した。しかし(もちろん要因はそれだけではないにせよ)売上も株価も下がってしまった。顧客が同社の下着に求めていたのは、快適さや多様性ではなく“夢”だったのだろう。
美しい下着を身につけたところでエンジェルモデルのようにはならない。
しかし、同ブランドの華やかな世界に触れた瞬間の「自分もこう見えるかもしれない」という期待こそが、購買行動を支えていた。
美しい下着をまとった中肉中背のマネキンを見て落胆した筆者の経験は、まさにその構造を物語っている。「こんなに素敵な下着を身につけたとしてもこんな風にしか見えないのか」と現実を突きつけられてひどく落胆した。その瞬間、買い物の楽しさが急激に萎んでしまったのだ。
ヴィクトリアズ・シークレットに限らず、反ルッキズムを反映した外資系企業の多くが、社会的賞賛と商業的苦難の両方を抱えることになった。
理念と市場のズレこそが、反ルッキズムが直面する最大の壁なのである。
■美人はマーケティングになる——作品が描いた残酷な現実
作品の後半では、このズレがより鮮明に描き出される。
美人の梨花は、美容研究家として「自信を持て」と発信し、反ルッキズムを掲げた編集プロダクションを運営している。しかし、その活動が広く受け入れられているのは、梨花が「美人」という記号を持っているからだ。
その現実を受け入れられない梨花は、自らの影響力が“美人ゆえ”であることを否定したくて、匿名で活動を試みる。だが、同じ言葉を発しても世間の評価はまったくついてこない。
一方、梨花が去った編プロでは、不安を煽る記事によって業績が改善していく。醜形恐怖を刺激すれば、化粧品や美容医療、ダイエットなどのビジネスにつながりやすいという構造があるからだ。
黒字となり、待遇がよくなると、かつて反ルッキズムを掲げて集まったスタッフたちでさえ、信念が揺らいでしまう。
しかし、ひとりだけ揺るがない人物がいる。知子だ。
■知子が示した“生の声”という価値
知子は、美人でもインフルエンサーでもなく、SNS映えする存在でもない。
それでも読者の心を動かしたのは、外見の競争の外側にいる彼女にしか語れない「痛みの経験」があったからだ。
「こう生きてきた」「こう傷ついた」——その率直で生活者の実感に根ざした言葉は、マーケティングでも理想論でもなく、反ルッキズムが本来持つべき“社会的価値”そのものだった。
しかし、知子の誠実さがどれほど読者を動かしても、社会構造は別の論理で動いていく。
■理想と市場のあいだで折り合うという答え
『ブスなんて言わないで』のラストが示したのは、理想か現実かの二項対立ではなく、そのあいだで折り合いをつけながら生きていくしかないという、ごく等身大の答えだった。
市場は依然としてルッキズムに依拠して動く。それでも、私たち個人の視線や価値観は変えていける。その両方を見据えることでしか、社会は変わらない——。
そんな静かなメッセージが作品には込められていた。
■“理念と市場のねじれ”とどう向き合うか
この“両立の姿勢”は、反ルッキズムから方針転換する企業が増えつつある現代社会にも通じる。
商業的現実を受け止めつつ、社会的に望ましい価値を手放さないこと。その中間点を探り続けることこそ、企業にも個人にも求められているのではないだろうか。4年かけて丁寧にルッキズムの課題と向き合った『ブスなんて言わないで』は、現実の社会と響き合いながら、「逃げずに共に進むための選択肢」を示して幕を下ろした。
市場が変わらなくても、人の視線は変えられる。構造がすぐに変わらなくても、主観は更新できる。作品が提示したのは、静かだが揺るぎない希望だったのだ。
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