[為末大学]【本当の謙虚さは勝負をしている人の中にある】~真の高みは井戸の外にある~
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
昨日、謙虚さの話になった。私が高校生の頃は先生が“実るほど頭を垂れる稲穂かな”といつも言われているぐらい謙虚さを勧められた。日本のスポーツ界にとっては謙虚さはとても大事な美徳のうちの一つになる。
ところが実際の私は謙虚でもなんでもなく、なにしろ中学時代に全国で一番で、本職ではない幅跳びや混成競技でも日本ランキング一位だったものだから、謙虚さは皆無だった。他者へある種の見下しもあったのかもしれない。
今が謙虚かどうかはさておいて、この傲慢さがへし折られるまでに三つのプロセスがあったように思う。一つはスランプである。高校時代に肉離れを頻繁に起こしたり、また早熟型だったこともあり、急激に他の選手との差が詰まっていった。若い頃の余裕や傲慢さは他者より優位に立っているということで成り立っているから、競技場内で他者があまり私を大事に扱わなくなっていき、それと比例して私の態度もずいぶん控えめになっていった。
もう一つは世界に出たことだ。国内では大体一番になることが多かった私が、世界に出てみて、そのトップの選手との差に驚いた。勝てないというより、全く歯が立たない。こちらは必死で十数年やって世界に出てきているのに、たかだか1、2年のキャリアで世界で勝負できてしまっている人もいる。
つまり本当に才能に溢れた人とそこで初めて会って、私は特別でもなんでもないのだということを実感した。それ以来、傲慢でなくなったわけではないけれど、少なくとも実は井戸の中でしか通用しない自分という意識を持ちながら自慢した。
最後は、それでも世界で勝ちたいと思ったことだ。そうなると現状の自分には足りないものが多すぎてそれを埋める為に、常に成長の鍵はないかと探す。本人は謙虚になろうという意識はさほどないけれど、結果としてそれが謙虚に見えていることが多いのではないかと思う。そもそも勝負したいと思わなければ理想も存在せず、理想が存在しなければ足りなさも感じない。
以上の三つが重なり合いによって、少しずつ大きすぎた自尊心が削られていったように思う。傲慢に思えて本当に突き抜けてるだけの人もいるから、判断は難しいけれど、いわゆるわかりやすくプライドが高くて扱いにくい人は、大体勝負をしたことがないか、勝負から下りているかのどちらかではないかと思う。井戸の外にしか高みはない。