[為末大学]【狙っている人はチャンスをものにする】~生きる姿勢に自覚的でいよう~
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
最近、仕事が生まれるタイプの人間とそうではない人間の違いを考えていて、狙うという切り口が思い浮かんでいる。能力のあるなしとは別で、狙っている人間かそうではない人間かの違いがあるのではないだろうか。狙っている人間は、打ち合わせをしていても、ご飯を食べていても、何かを狙っている印象がある。わかりやすく仕事につなげようという狙いもあるけれど、話の中から何らかの学びを得ようと狙っている場合もある。また、情報をとろうと狙っている場合もあるし、こちらを楽しませようと狙っている場合もある。いずれにしてもそこに意思がある。
狙っている人間と話をすると、世の中にはチャンスがいっぱいあるという表現をする。一方狙っていない人間は世の中はチャンスがないという表現をする。私なりに考えてみたところ、どうもこの両者は違うメガネをかけて生きていて、同じ条件でもチャンスがあるように見える人とそうではない人がいるのではないか。だから正確に言うと、狙っている人は、狙おうとして世の中を見ているからチャンスが見つかるのだと思う。いや、もっと正確に言えば、狙っている人間はチャンスがあると思い込んで生きていて、それがそのうちに本当になっている印象を受ける。
狙う姿勢を持って生きるためには、まず根本に何かをやってやろうという姿勢がなければならない。それからある程度世の中の構造をわかっている必要がある。さらには自分の中でぼんやりとでもアイデアや方向性を持っていないといけない。それらが揃っている人間は、会う人や、仕事に対して対応的な姿勢にならず、向いている方向にはまるものはないかと探しながら生きていて、またそれと出会った時にピンとくるのだと思う。当たり前だけれど、探していない人間にチャンスはこない。意思がなければチャンスもない。
人生は流されて生きていても、それなりのところには流れていく。だから誰もが狙う姿勢を持つ必要はないと思う。狙いすぎている人間は人によってはガツガツして見えて、鬱陶しがられる可能性もあるから、必ずしも狙う姿勢がいいとも限らない。
どんな姿勢で生きていくかは自由だと思うけれど、ただ自分が狙っていない姿勢で生きている場合、せめてそのことに自覚的ではありたい。日々眼の前で繰り広げられていることをぼんやりと傍観しているのだから、チャンスがなくても文句を言わず生きていきたい。