[岩田太郎]【根深い病根、東京五輪は返上せよ】~オリンピックは今や私的な利権の祭典~
岩田太郎(在米ジャーナリスト)
「岩田太郎のアメリカどんつき通信」
東京五輪組織委員会は9月1日、アートディレクター佐野研二郎氏がデザインした公式エンブレムの使用を中止すると発表し、日毎に深まる国民の2020年東京オリンピック大会そのものへの不信増大という事態の幕引きを図った。だが、ロゴが使用中止になっても国や組織委の無責任体質は何も変わっておらず、それゆえに新国立競技場や今回の問題で明らかになった「密室型お手盛り・責任所在不明・分配の不公平」に起因する事象は、必ずより深刻な形で繰り返し噴出する。その後始末にはオリンピック終了後に多数の大型「ハコモノ」を抱え込む国民の血税がさらに多く使われることになろう。
スポーツ界だけでなく、デザイン業界・放送業界・スポーツ用品業界・観光業界・建設業界・広告業界・大会スポンサーをはじめとするステークホルダーの莫大な利権と利益が絡み、税金や広告収益から流れるカネのお手盛り分配がもたらす腐敗が、予算オーバーや工期遅れや他の好ましくない問題となって噴き出し続けるのだ。ダメージコントロールは、より難しくなっていく。
なぜ、そうなるのか。それは、招致費用や開催にかかる費用を国民が負担するオリンピックが、「公」を大切にするスポーツの祭典ではなく、「私」や「組織護持」が最も重要な、利権を束ねる祭典に変質したからである。大会開催の過程で国民が不在なのに、国民のカネで私腹を肥やし、問題が起こればコストを国民にシフトする体質が、新国立・佐野問題の本質だ。
その体質を象徴するのが、スポーツ「選手」から「アスリート」への呼称の変化だ。数十年前まで、選手は育ててくれた地域や国への感謝や奉仕を体現するものとされていた。本音は別として、アマチュア選手がお金や名声を求めることは、恥ずかしいという文化があった。勝ってガッツポーズを決めたり、「必ず勝ちますから」などと不遜な言葉を吐くなど、論外だった。謙遜と謙譲が必須だった。
だが、今はアスリートが「私」の追求を前面に出しても、非難されることはない。スポーツが「公」や友情や自己鍛錬のためでなく、金儲けの道具という米国型の考え方が定着した今、彼らを英語で「アスリート」と呼ぶのは正しい。
こうして「公」から「私」へと変質したスポーツのあり方が、そのまま国民不在のオリンピック運営に現れている。1964年の東京大会は、敗戦後の国民の心と情熱を鼓舞し、国民生活も確実に向上させた。だが、国民生活の体感が低下し続けるなか、東京による2016年・2020年の大会誘致に際して、国民の熱狂や支持が足りなかったのは、当然だ。
一部の当事者や業界は潤うが、あまねく利益が分配されない形になっている2020年の大会に関しては、利益の分配に不公平感が漂い、全体に白けムードなのだ。佐野氏への攻撃は、そうした国民の疑いが集中砲火へと発展したものだ。このままでは、国民の心を束ねるどころか、特定の個人・政治家・業界や政府への嫉妬や不満が渦巻く大会になる恐れがある。
一事が万事で、大会そのものが私物化・密室化されて、意義を失っている。競技参加者や観客に優しい秋開催ではなく、地球温暖化で熱くなるばかりの夏の開催となったのは、米国で放映権を持ち、莫大な放映権を国際オリンピック委員会に支払う米NBC放送のNFLや大リーグの試合スケジュールと重ならないようにするためだ。各国オリンピック委員会の利権の源泉だから逆らえない。
2020年の東京大会は、賠償金や刑事罰などで失敗の責任の所在を明らかにしなければ、より多くの問題でケチがつき、成功にはほど遠いものとなることが目に見えている。しかし、これ以上の失敗を防ぐ体制は今の日本にはない。
いっそのこと、大会の返上をすべきだ。国民の理解を得られていないのは、新国立やエンブレムだけでなく、「密室型・お手盛り・分配の不公平」を象徴するオリンピック大会や国のあり方そのものであるからだ。
スポーツに「公」を取り戻し、オリンピックが本当に国民の手に戻るように、国民の知恵を絞る時だ。「公」中心の大会運営の用意が整えば、それが世界へのお手本になる。その時にこそ、東京が再立候補をすればよい。国民の熱い支持が得られることだろう。それが、国のあり方の改革にもつながるだろう。