ベトナム戦争からの半世紀 その43 ミン大統領の登場も虚しく

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
【まとめ】
・ミン大統領は停戦と民族和解を訴えたが、北ベトナムは「サイゴン政権の解体」などを要求し、交渉に応じなかった。
・北ベトナムは当初から南ベトナムの軍事的な粉砕を意図しており、停戦交渉の意思はなかった。
・南ベトナム政府は北ベトナムの真意を理解せず、最後まで停戦を模索し続けた。
「私に与えられた任務は一刻も早く停戦を実現させることだ。民族和解の精神に基づき戦争を止めて、パリ和平協定の枠内で南ベトナムの政治解決を交渉しなければならない・・・」
重苦しいながらも、ゆったりとした語調で新大統領のズオン・バン・ミン将軍は語った。4月28日の午後5時すぎ、サイゴンの大統領官邸でのミン大統領の就任式だった。その日、タンソンニュット基地での狂気のようなベトナム人の大量出国の模様をみた私は毎日新聞支局に戻り、またすぐに外に出て、市内の中心にある大統領官邸に出向いたのだった。
グエン・バン・チュー大統領の後を継いだチャン・バン・フォン副大統領をトップとした政権は北ベトナム側から即座に「チューなきチュー政権」と断じられ、停戦交渉の相手にしないとはねつけられた。だから北側、つまり革命勢力側からも受けいれられるチュー色の薄いミン将軍を新大統領に選んだのだ。その過程では南ベトナムの議会の上下両院合同会議がフォン氏に代わる、革命側にも受け入れられる人物をフォン氏に一任して選ぶという決議を成立させていた。4月26日のことだった。その結果、フォン氏が選んだのがミン氏だったのだ。
ズオン・バン・ミン氏はこの大統領就任から12年も前の1963年、当時の南ベトナムの強権支配者ゴ・ジン・ジエム大統領を倒したクーデターの主役だった。ベトナム人には珍しい巨体のために、内外で「ビッグ・ミン」という愛称を得ていた。フランス植民地軍出身の生粋の職業軍人だったが、温和な性格と地味な生活ぶりで幅広い支持があった。国家元首にまでなったが、その後の新たな軍事クーデターで失脚し、タイに亡命した。さらにその後のひとまずは民主的な選挙でのグエン・バン・チュー政権の成立とともに1968年には帰国したものの、ミン氏はチュー政権とは距離をおき、仏教徒の支持を得るようになった。1973年のパリ和平協定成立後は南ベトナム政界では民族和解の第三勢力ともみなされるようになった。
ただしミン氏も共産主義を掲げる北ベトナムや南領内の革命勢力には同意しないという反共の基本姿勢は保ってきた。しかし南ベトナム全体が軍事力で粉砕されそうな危機にいたって、北ベトナム側が停戦交渉に応じるかもしれないほぼ唯一の南側の指導者とみなされるようになったのだ。
ミン氏の趣味はバラの花の栽培だった。大統領官邸に近い自宅の庭は目をみはるような多彩のバラの花に埋めつくされていた。私は彼をその自宅に何回か訪れ、話を聞いたことがあった。穏やかな性格を感じさせる政治への姿勢は好感を抱かせたが、一方、鋭さや気迫に欠けるという印象もあった。
ミン大統領の就任式は大統領官邸の薄暗いホールで催された。最初にフォン大統領が弱々しい足取りで前に出て、自らの辞任とミン氏への大権移譲を宣言した。続いてミン氏が停戦の呼びかけとともに、和解の意思を強調した。
「われわれが心から和解を望んでいることを向こう側のわが同胞たちもよく知っているはずだ。お互いの生存する権利を尊重しよう。パリ協定をもとにただちに話しあいを始めよう」
ミン新大統領はみずからの直属の副大統領にカトリック系のグエン・バン・フエン前上院議長を、首相には仏教徒を代表するブー・バン・マウ上院議長を任命することを発表した。いずれもチュー大統領とは距離をおいてきた政治家たちだった。そしてミン新大統領は南ベトナム政権を軍事力で倒そうとする北側を「わが同胞」とまで呼んだのだった。必死の停戦への懇願だともいえた。
私はその新政権の一角に入ったホー・バン・ミン下院議員に声をかけてみた。彼は若手の政治家で、清廉の人物として市民に人気があった。私も親近感を覚えていた。彼は新政権の副首相に任命されていた。
「まだチャンスはあります」
ミン議員は白い歯をみせ、一瞬だが明るい笑顔をみせた。
ミン議員の強調するチャンスとは新政権全体の切ない期待でもあった。北ベトナムとアメリカが加わって南ベトナムの将来を決めたパリ和平協定は南ベトナム政府と、さらに北側と一体の臨時革命政府と、その中間に立つ第三勢力とが三派平等の「民族和解一致全国評議会」を結成し、総選挙を実施して、南ベトナム、つまりベトナム共和国の将来を決めることを明記していた。だから南ベトナム政府が全面的に譲歩をすれば、北側は戦闘を止めて、政治交渉に応じるだろう、とサイゴン政権が期待してもおかしくはないわけだ。そもそも北ベトナムの軍事大侵攻はパリ和平協定の完全な違反なのである。
だが南ベトナム政府の一連の停戦案に対して革命側はまず「チュー政権との交渉には応じない」と断固、拒否した。南側はチュー大統領を退陣させた。だが革命側はその後に登場したフォン政権を「チューなきチュー政権だ」と断じて、交渉を拒んだ。そしてフォン政権の最後の段階の4月26日、「停戦交渉の条件」として以下の内容をあげていたのだった。
(1)アメリカはベトナム人の民族自決権を尊重し、あらゆる干渉を停止する。
(2)サイゴンに平和、独立、民主、民族和解を尊重し、パリ和平協定を厳しく順守する政権が樹立される。
(3)この新政権はチュー一派や共産主義に反対する人物を含んではならない。
この声明には実は重大な意味があった。だが当時の南ベトナムも、いやアメリカやフランスという関連諸外国も、その部分の真意を正確には受け取らず、停戦交渉はまだ可能だという見方をとっていたのだ。私自身もほぼ同様だった。実際に南ベトナム政府が軍事的にここまで追い詰められてもなお条件次第では北ベトナムが停戦交渉に応じるという態度を崩さなかったのは、フランス政府がそうした見解をとり、南ベトナム側にチュー大統領の辞任など北側の要求に応じるよう圧力をかけたことが大きな要因でもあった。
だがこうした見方は結果として現実をみない楽観論だった。北ベトナムは最初から停戦交渉に応じる意図はなかったのだ。「チュー大統領さえ辞任すれば」という条件を当初は提示して、実際にチュー辞任を実行させる。だがその後の政権に対しては「チューなきチュー政権だから交渉には応じない」と条件を引き上げる。その結果、南ベトナム政府側は8年も続いてきた政権のトップを失い、軍事的にも政治的にも一段と弱くなっていった。
北ベトナム側が最初から停戦交渉の意図がなかったことは前記の4月26日の言明の第三項の「共産主義に反対する人物を含んではならない」という要求が明示していた。南ベトナム側では反チュー勢力でも、仏教徒やカトリック系であっても、北ベトナムの共産主義には反対だったのだ。要するにベトナム共和国という存在自体が共産主義を否定した政体だったのである。だから南ベトナム側のどんな勢力でも「共産主義に反対しない」という条件をつければ、北側の停戦交渉の対象にはなりえなかったのだ。
この真実を認識しなかった当時の南ベトナム政府の必死の停戦模索はまさに悲劇だった。北ベトナムは最初から南ベトナムという存在自体を許さず、軍事的に粉砕するという決意を固めていたのだ。それを知らずに最後まで北側の「停戦条件」を満たそうと、みずからの身を削っていったのが当時の南ベトナム政権だったのだ。
その証左に北ベトナム側は4月28日夕に登場したズオン・バン・ミン大統領の切々たる停戦交渉の求めに対しても、すぐに拒否の回答を示していた。
- 停戦実現のためにはアメリカが南ベトナム人民の自決権を真に尊重し、一切の介入を停止する。
- アメリカ新植民地主義の道具たるサイゴン政権を解体し、南ベトナムの戦争寄稿や人民弾圧制度をも解体する。
アメリカはこの時点で軍事介入こそしていないが、非軍事面で南ベトナムの官民に対する経済的や人道的な支援を続けていた。北側はその一切を止めろと求めたわけだった。そのうえにサイゴン政権の解体、あるいは南ベトナムの戦争機構の解体というのは、現実的にはベトナム共和国という存在の全面否定だった。ここにきて北ベトナム側は南側との交渉などまったく考えていないことがあまりにも明白となったのだった。
(つづく)
トップ写真:Capture Of Le Quang Vinh (Ba Cut)




























