[細川隆一郎]【中野正剛の自刃に学べ】~政治家と新聞人に猛省促す~
細川隆一郎(政治評論家)
細川隆一郎の「THE 提言」
昭和十八年十月二十七日午前零時、衆議院議員東方会総裁・中野正剛は、代々木上原の自宅二階の自室で割腹。腹がよく切れぬと知るや右頸動脈を断ち切り、血しぶきが障子に降りかかる中、息を絶えた。机上には大西郷全伝が開かれていた。同氏の最も敬愛してやまぬ人物が、城山の露と消えた西郷隆盛である。中野は大西郷のほか、湊川合戦で敗れた楠木正成もこよなく敬愛していた。大西郷も正成も死を以て己の所信に生きたのである。中野正剛またそうである。
私は早稲田大学の学生の頃、日比谷公会堂、九段の軍人会館(今の九段会館)、赤坂にあった三会堂等々で、幾度か中野の大演説に接し陶酔したものだ。東條英機陸軍大将が、首相として権力をほしいままにしている時であった。中野は当初、米英の無礼を弾劾し、開戦も辞せずと日本国民の血潮をたぎらせた。私は彼の一言一句を聞き逃すまじと、耳を澄まして聞き入った。古今東西の歴史を語り、〝日本人よ、米英の非に屈するな〞との論旨は、学識に裏打ちされた魂の雄叫びであった。
昭和十六年十二月八日、開戦当初の戦果はめざましいものであったが、十七年、十八年となるや日本の劣勢は誰に目にも明らかとなり、中野は戦争指導方針の誤りを正すため、東條を首相の座から引き下ろすことを考えた。民衆を無用の死から救うには、東條を辞めさせることが喫緊のこととして、重臣工作に奔走した。
中野正剛は東條政治に死を以って立ち向かったのだ。民衆を救うことこそ代議士の使命と、中野は考えたのだ。
中野は東條引き下ろしを、重臣に対して口説き回った。反対する重臣、一人もなし。そこで重臣会議の席上、彼らの口から東條の首相退陣を迫ることを期待した。ところが中野の志と違い、重臣誰一人東條に退陣を迫るものなし。これを知った中野は、〝我が身可愛さのみに生きる〞重臣の不甲斐なさに、最早これまでと、死を以って東條と対決することを決意した。
中野正剛の自刃の報は、日本全国を震撼させた。私は軍隊でこの死を知り、愕然とした。
中野正剛は、昭和十八年元旦、朝日新聞を飾った「戦時宰相論」に決意がみられる。この一世の名文は福岡の少年時代からの友、緒方竹虎の求めにより昭和十七年十二月二十日頃、一気に書き上げられたものだ。緒方は、朝日新聞の主筆。彼もまた東條政治に批判の目をもっていた。東條批判の記事を掲載することは、社運を賭けることでもあり、筆者選定にあれこれ思いを巡らし、最後に竹馬の友、中野を選んだ。中野はこれに応じたというわけだ。一読した東條首相は朝日新聞を発禁としたが、すでに配達が終わっていたので、実害はなかった。
そこで、中野はなぜ自刃したのか考えてみた。
東條を辞任させることが、民衆の無用の死を阻止すること。このことこそ民衆から選ばれた代議士の務めである。しかるに、こと志と違い、東條を首相の座から引き下ろすことができなかった。このことは、民衆のために生きる代議士としての使命を果たし得なかったことになる。ならば死を以って「東條と対決するほかなし」と中野は考えたのである。
中野の自刃は、まさしくそこにあった。中野の死をめぐって論議があったが、私はこう考えた。
断十二時、五十七歳。
ここ一〇年間、政治は乱れに乱れ、今もって混迷の度合いは深い。その根本原因は、代議士が己の使命を忘れ、大臣になることのみを求め、又蓄財に狂っていることにある。ある者は、金の延べ板を隠し持っていた。驚くばかりだ。金銭を求めるには権力を求めるにしかず。権力を求めるに使命を忘れ、いたずらに親分の髭のチリを払うことにのみ汲々としている。こういうことで政治が混迷しないほうがおかしい。民衆のために生きる魂なき代議士は、畜類に劣る。今こそ、いやしくも政治家を自称するならば、中野正剛の自伝でも読んだらどうか。民衆を忘れた政治家によって国が滅ぶ。
新聞ジャーナリズムは、朝日新聞の緒方竹虎の如く、毎日新聞の戦争中の編集局長・吉岡文六の如く、胆力識見のある人物によってつくられてほしいものだ。すべからく新聞人は、過去の偉大なる先輩たちの業績を学ばねばならない。
先輩は己を捨てて権力の間違いを正さんと、命懸けで仕事をしたものだ。政治家の腐った魂を正すのは、新聞ジャーナリズム以外にない。私は政治家に反省を求めると同時に、新聞人に猛省を促したい。
(©細川珠生 無断複製、転載を禁じます。「論点」1999年5月号所収)