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.国際  投稿日:2016/5/21

イスラム系ロンドン市長誕生 その背景


渡辺敦子(研究者)

「渡辺敦子のGeopolitical」

5月16日はサイクス・ピコ協定の 100周年だった。1916年に結ばれたこの協定は、現在のイラクやシリアなど中東に見られる人工的な国境線を引き、紛争の火種を作った。英国はフランス、ロシアと共に協定の当事者で、英国外交史上の汚点とされる。にもかかわらず、保守系のタイムズはもちろん、リベラル系新聞のガーディアンでさえほとんど取り上げなかった。

ドイツ人の友人によれば、ドイツでは大きく取り上げられたという。現在の国際情勢、特に欧州で頻発するテロを考えれば、この英国の無関心は意外なことと言わざるをえない。またロンドンでは先日、パキスタン移民の子のロンドン市長が誕生し、「西欧世界では初」のイスラム系大都市の首長として騒がれた。イスラムに対する冷淡さと親近感。この一見矛盾した英国の状況は、どう説明できるだろうか。

世論の空白は、国際情勢を考えるうえで違った視点を提供してくれる。ロンドン市長誕生は、トランプ米国大統領候補のイスラム教徒入国禁止発言と対照的に受け止められ、英国では今も双方の論争がマスコミを賑わせている。

歴史的には親子のような両国のイスラムへの感度の差は、ロンドンの国際性や社会事情、英国のイスラム世界、特に中東との距離の近さから説明される。米国では依然パワフルな、世界を分断するキリスト教対イスラム、オリエント対オクシデントといった言説は、欧州ではもはや通用しない、と言った具合だ。

これはもちろんある一面だが、だから英国人は米国人より人種問題に理解がある、と考えるのは早計だし、そう考えてしまうと今回の歴史的イベントの無視は説明できない。

トリックはまず、「イスラム」とは誰なのかという問いにある。中東とインド・パキスタンでは地理的にあまりに広範囲だし、後者は歴史的に英国では多数暮らし、むしろ今も根強い大英帝国アイデンティティの源だ。BBCテレビのドキュメンタリーなどでは大英帝国の遺産、植民地、などといった言葉は日常的に肯定的に語られる。

つまり彼らは宗教や人種は違っても、英国人の歴史的自己を形成する要素で、他者ではない。つまりイスラム過激派と必ずしも同一ではない。ちなみの英国人にとってアジア人といえば、我々東アジア人よりもインド・パキスタン系の人を指すらしい。

一方でアメリカのトランプ的過激言説を支えるのは、アメリカが欧州旧世界から海を隔てた、穢れない新世界であるという歴史的自己認識だろう。これは本来、ピューリタン教的伝統、アメリカは丘の上の街であるという神話に基づくものだが、宗教を超えてアメリカ人の多くに現代も共通する優越感である。

ちなみにアメリカ人は自分のルーツにこだわる人が少なくないが、どう見ても白人に見える複数から「私の祖先はスコットランドからきた。もちろんインディアンの血も混じってるに決まってるが」などという説明を受けた経験がある。人間が自己を語る時のさりげない補足説明は、案外重要な意味を持つ。つまり、アメリカ人にとっては、殺戮したはずのネイティブアメリカンも、この言説では大切な自己の一部なのだ。

ここでは、米国人にとっての敵は、 その神聖な国土を侵す全ての外部であり、ネイティブアメリカンは内なるものだ。一方イスラム過激派は現代における「外」の象徴である。バブル期、ニューヨークの不動産を買いあさった日本が敵視されたのも、同様に「外」を象徴したからで、この文脈では欧州さえ外部になり得る。

つまりトランプ支持者イコール人種差別者の図式は、それほど単純ではない。この言説では、最大の侵入者がイスラム教徒として記号化されているだけで、誰がイスラムかははっきりしない。

つまり、サイクス・ピコ協定への無関心と初のイスラム系市長誕生は、英国人の自己認識からすれば矛盾しない。つまり日本からは同様に見える「イスラム」も、英国人にとってはいくつかに種分けすることができ、米国とは必ずしも一致しない。単純に見える人種・宗教対立は、内実はこのように複雑なものなのだ。


この記事を書いた人
渡辺敦子

研究者

東京都出身。上智大学ロシア語学科卒業後、産経新聞社記者、フリーライターを経て米国ヴァージニア工科大学で修士号を取得。現在、英国ウォリック大学政治国際研究科博士課程在学中。専門は政治地理思想史。

渡辺敦子

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