ベトナム戦争からの半世紀 その4 古都フエでの疑問
古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」第961回
【まとめ】
・北ベトナム軍の1972年大攻勢により、南ベトナムの古都フエは危機にさらされていた。
・市内北側は無人地帯と化し、都市全体が南へと逃走。
・フエ住民は北ベトナム軍を「南解放勢力」と呼ばず「共産側」と断じていた。
南ベトナムの古都フエは猛暑のなかで混乱をきわめていた。市内の南半分は車と人の密集した流れで埋まっていた。トラック、乗用車、タクシー、オートバイなど、あらゆる乗り物に人間や家財道具が満載となって、ゆらゆらと走っていく。その国道1号線の南への流れに道路脇に立つ人間集団が狂ったように手を振って同乗を求める。その金額をめぐる交渉があちこちで展開する。一方、市内の北側は商店も住宅も放棄され、無人地帯と化していた。この都市全体が南へ南へと逃走する、という構図だった。
ベトナム戦争への新参の報道記者として私が現地に到着後すぐに目撃したのは、こんな異様な光景だった。1972年5月はじめだった。私が4月下旬に毎日新聞のサイゴン支局に特派員として赴任すると、おりからの北ベトナム軍による1972年大攻勢が激しくなっていた。南北境界線の北緯17度を越え、国境を画すベンハイ川を堂々と渡ってきた北のベトナム人民軍の大部隊は南ベトナム最北端のクアンチ省を制圧し、省都のクアンチ市を占拠してしまった。長いベトナム戦争でも北側、つまり革命側が南側の省全体や省都を完全に占拠するという実例は非常に珍しかった。南ベトナムにとっては国家の危機だった。
北ベトナム軍の大部隊はクアンチ市を包囲し、ソ連製戦車T54を50台をも投入して、猛攻撃をかけた。守備に当たっていた南ベトナム政府軍の第3師団はまもなく散を乱して退却した。まだ南ベトナムに残っていたアメリカ空軍機も空からの爆撃で北軍の進撃を阻もうとしたが、できなかった。
北ベトナム軍はさらに南への進撃の動きをみせた。クアンチ省のすぐ南のトアチエン省も危機にさらされてきたのだ。その省の省都がフエだった。フエはベトナムがフランスの植民地になる前の安南王国時代の王都だった。いわば京都のような歴史ある都市だったのだ。しかも人口も30万以上で、この時代の南ベトナム全体でも有数の都市だった。そのフエが万が一にも北軍に制圧されるとなると、戦争全体の局面が一変するほど重大事になる。その危機の迫ったフエの現状を報じるために、首都のサイゴンに赴任してわずか1週間ほどの私が現地に出かけることとなった。
フエはサイゴンから北へ650キロほど、ベトナム航空の旅客機で3時間、フエの市街から南へ15キロほどのフーバイ空港にまず着いた。ここにも南軍とアメリカ空軍の基地があり、米軍将兵も2000人余りがなお駐屯していた。この空港のターミナルがベトナム市民でいっぱいだった。荷物を山のように抱えた家族などがとにかく航空便でフエ地区から非難しようと殺到していたのだ。この空港からフエ市街へ通じる道がこれまた車と人の海だった。北ベトナム軍の接近を恐れて、だれもが南へ、南へと脱出しようとしているのだ。
今回の私のフエ取材には毎日新聞のサイゴン支局で助手を務めるテ・ゴク・イエンさんという20代後半のベトナム人女性が通訳として同行してくれた。戦地の取材には危険が伴うので私一人で出かける意向を伝えたのだが、イエンさんは「フエには子供のころ住み、いまも知り合いがいるので、ぜひ行ってみたいです」と申し出てくれた。市内での取材では彼女の通訳が全面的に役立った。
市内では脱出する人、なおあきらめたように留まっている少数の人、大学生や軍人など幅広い人たちに考えや感じ方を尋ねてみた。みな一様にフエが戦場になることへの恐れを表明した。北ベトナム軍が攻めこんでくることへの恐怖を明確に述べた人たちもいた。
ここで私がまず驚いたのは日本のメディアなどでは「南ベトナム民族解放勢力」と称されていた北の部隊をはっきりと「コンサン(共産)」と呼ぶフエ市民が多かったことだ。北から攻めてくるのは「共産軍」だというのである。
もう一つは、何人かの市民が北の部隊への恐怖を述べるなかで「共産側による大量処刑」を指摘したことだった。この事件は私も一部の資料でうっすらとは知っていた。1968年の北側によるテト攻勢でフエ市内の一部を一ヵ月ほど占拠した北側部隊が南側の将兵や警察、官僚など数百人を連行して海岸で処刑したとされる事件だった。南側の市民の間ではそんな事件がなお北側勢力への恐怖の原因となっているようなのだ。こんなことも日本ではほとんど知られていなかった。
どこかが大きく異なる。私自身のベトナム戦争認識と現地の実態との大きな断層とも呼べるへだたりを改めて真剣に意識したのは、このフエでの取材だったかもしれない。
繰り返しとなるが、私の日本でのベトナム戦争の認識は浅薄だった。主要新聞の報道をそのままに受け入れた結果だった。大多数の認識は以下のようだった。
「ベトナムで戦争が続くのはアメリカの軍事介入とその手先の政権のせいであり、南ベトナム国民の大多数は米軍を敵視し、『解放勢力』を支持している」
「米軍はベトナムを侵略している。日本は日米安保条約に基づき、その米軍の後方基地を提供し、ベトナム侵略に加担している。そんな悪への加担を生み出す日米安保、日米同盟は排すべきだ」
しかし南ベトナムの国民が米軍と南政府に反発しているならば、北ベトナム軍が攻めてきたときに、なぜ背を向けて南へ南へと逃げるのだろうか。解放されたくはないのか。米軍や南政府軍と戦うのは南領内の解放勢力だというのなら、南北境界線を越えて南下してきた軍隊は北ベトナム軍ではないのか。しかもフエの住民は北ベトナム軍を「南解放勢力」などとは決して呼ばず、「共産側」と断じていた。
私のベトナムの現地での体験は自分自身のそれまでの認識の誤りを厳粛とも呼べる重みをもって骨抜きにし始めたのだった。
トップ写真)ベトナム南部、フエ -1972年5月5日
出典)Bettmann Archive/Getty Images