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.国際  投稿日:2025/4/1

ベトナム戦争からの半世紀その3 春季大攻勢の渦中へ


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授) 

古森義久の内外透視」第960回 

 

【まとめ】 

・1972年、サイゴンでは北ベトナム軍による「1972年春季大攻勢」が始まっていた。 

・これはアメリカ軍介入以来、北ベトナム軍による最大規模の攻勢。 

・しかしアメリカは既に米軍撤退の基本方針を決定。 

 

 

私は毎日新聞での社会部勤務の後に国際報道を扱う外信部への配属となった。社会部では前述のように学生運動の取材をも手がけたが、主体は警察での事件報道となった。王子駅前での取材中の負傷から回復した後はすぐに警視庁詰めの記者となったのだ。警視庁では刑事部の捜査二課と捜査四課の担当を命じられた。捜査二課は知能犯、汚職や選挙違反、横領、背任といった犯罪の取り締まりである。捜査四課は組織暴力団の犯罪の取り締まりだった。だがこの四課はその後、発展解消の形で暴力団対策のより大きな組織となった。 

そのころの毎日新聞社会部というのは勢いがあった。とくに組織暴力に敢然と立ち向かうキャンペーン報道で社会の高い評価を得ていた。その新聞社で警視庁担当というのはまだ新人に近い私には強いやりがいを感じさせる職務だった。先輩記者たちと多様な事件を追って、文字通り、昼も夜も必死で働き続けた。 

事件や事故の取材の方法、ニュース価値の判断、記事の書き方など記者活動の基本については、手を取り、足を取りの指導は誰もしてくれず、完全なオン・ザ・ジョブ・トレイ二ングだった。実際の作業にかかわっての自己訓練だったのである。同時に先輩記者たちの報道ぶりをみて、そこから学ぶことももちろん多かった。ただだれも直接には教えてはくれなかったのである。 

 

その日本の新聞社での実務で学んだことはアメリカの大学のジャーナリズム学科大学院で学んだこととは大きく異なっていた。たとえば「ジャーナリズムの社会的責任」というようなアメリカでの講義は目前の日本社会の現実とはかなりかけ離れ、抽象的すぎると感じた。記事の書き方も、一本の記事が長文となるアメリカの新聞のスタイルは日本の新聞には当てはまらなかった。 

 

しかし、日本での警視庁担当を始めとする社会部での記者としての訓練や学習はその後の長い報道活動での基礎の指針として、限りなく有益となった。 

 

そんな社会部記者としての活動が3年半ほど過ぎた時期に外信部への配置替えとなった。外信部というのは国際ニュースを扱う部門である。すでにアメリカの大学に留学した経験のあった私はやがては世界を対象とする記者活動をしたいと願っていた。会社としてはそんな希望も考えての人事異動だったのだろう。 

 

外信部では国際ニュースへの取り組みとはいえ、当初は社内のデスクで外国通信社からの報道を翻訳したり、自社の海外特派員からの記事を編集するというような内勤の仕事が多かった。だがときには東京を訪れた外国要人への直接の取材も増えていった。そのうち1ヵ月ほどのアメリカでの取材をも命じられた。「ディスカバー・ジャパン(日本発見)」というシリーズでアメリカでの日本製小型旅客機の活動、国連本部での日本人職員の実態、日本の仏教の広がりなどを細かく取材して、かなり長い記事を書いた。 

 

そして外信部に移って2年ほどの1972年春、当時の南ベトナムの首都サイゴンの駐在特派員になるという人事の命令を受けた。大任だった。当時、ベトナムでの戦火はなお激しく燃えあがり、全世界の注視を集めていたのだ。その第一線での報道を記者歴8年ほどで任されることは幸運だと感じた。 

 

現地のベトナムではちょうどこの時期、戦闘はかつてない大規模となっていた。1972年3月末、アメリカ軍や南ベトナム(ベトナム共和国)軍と戦争状態にあった北ベトナム(ベトナム民主共和国)は正規軍の大部隊を南北境界線の北緯17度の非武装地帯を越えて南領内に投入し、猛烈な攻撃を始めたのだった。開始の時期が3月末のキリスト教の復活祭と重なったため、アメリカ側ではイースター(復活祭)攻勢とも呼ばれた。当事者の北ベトナム側では1972年春季大攻勢と呼んでいたことが後に判明した。 

 

この北側の戦いには、南ベトナム民族解放戦線と呼ばれる組織の軍隊も含まれていた。いや、北ベトナム側の公式の主張では北ベトナムの軍隊は南ベトナム領内には一切入っておらず、南領内で米軍や南政府軍を敵として戦闘するのは、すべてこの南ベトナム解放戦線の部隊だと宣言していたのだ。 

 

しかし今回は北ベトナム領の最南端から南との国境にあるベンハイ川を人民軍の正規部隊が堂々と渡って、進撃してきたのだ。さすがにアメリカのメディアなどははっきりと「北ベトナム軍による大攻撃」と明記していた。だが日本のメディアの多くは後述するように、「南解放勢力軍による攻勢」などと書いていた。 

 

北側の大部隊は南ベトナムの最北端のクアンチ省を席巻し、省都のクアンチ市を占拠した。長い年月のベトナム戦争でも南側の省都が完全に占拠されるという事態は珍しかった。北ベトナム軍は南領内の中部高原のコンツム市にも、サイゴン北方のカンボジア国境に近いアンロク市にも、激しい攻撃をかけた。 

 

この1972年春季大攻勢はアメリカ軍が正式にベトナムへの介入を始めた1965年以来、北ベトナム軍による最大規模の攻勢だった。アメリカにとってはテレビ報道により一般家庭の居間に血みどろの戦闘の光景を初めて持ちこまれたとされた1968年のテト攻勢の規模を上回っていた。 

 

ただしアメリカは1972年のこの時点ではリチャード・ニクソン大統領がすでに米軍撤退の基本方針を決めていた。最大50万人にも達した南ベトナム駐留の部隊は72年春の時点では約10万ほどに減っていた。とくに地上戦闘任務の米軍はゼロに近い水準にまで減少していた。しかしアメリカの空軍はかなりの規模が残留し、南ベトナム政府軍の作戦を支援していた。 

 

私が南ベトナムの首都サイゴンに到着したのは1972年4月22日だった。まさにその年の春季大攻勢が始まって3週間ほどの時期だったのである。その時期の東京は桜の花が美しく咲き、一時は社会を揺るがせた過激派学生運動もおさまり、まさに平和と安定のなごやかな空気に満ちていた。そんな平和の日本から、いきなり戦争のベトナムに飛び込んだ私は現実の戦場がすぐ近くに迫っているという緊迫感をいやでも感じさせられるようになっていった。 

 

(その4につづく。その1その2 

 

 

 

トップ写真)ベトナムの兵士-1967,11月 

出典)Stocktrek Images by Getty Images 

 




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