復活するタリバン アフガニスタンで今何が?
久保田弘信(フォトジャーナリスト)
9・11アメリカでの同時多発テロ事件、そして、それに続くアフガニスタン戦争。現在まで続く世界の混乱とテロ事件の横行は9・11から始まったと言っても過言ではない。
真珠湾攻撃以来とも言われるアメリカ本土への攻撃はアメリカ市民だけでなく世界を震撼させた。しかもその手法が航空機をハイジャックし、貿易センタービルに激突させるという前代未聞の大規模なテロ攻撃だったから市民に与えた恐怖とテロ団体に対する憎しみは凄まじいものだった。
同時多発テロの首謀者オサマ・ビン・ラディンを匿っているという理由でアフガニスタン戦争が仕掛けられた。ここで、アフガニスタン側の立場を述べる人がとても少ない。日本や欧米ではアルカイダというテロ組織の首謀者を匿うアフガニスタンもテロの温床だという解釈だ。
アフガニスタンのタリバン政権は23年にも及ぶ内戦をようやく終結さえ全土を統一したばかりだった。アメリカの要求に従ってオサマ・ビン・ラディンを引き渡せば攻撃されずに済んだはず。しかし、アフガニスタンにとってオサマ・ビン・ラディンは旧ソ連がアフガニスタンに侵攻した時、祖国を救ってくれた英雄なのだ。自分たちの立場を考えオサマ・ビン・ラディンを引き渡してしまえば良いのだが、義を重んじるアフガニスタン人にそれはできなかった。
歴史を紐解いていくと、オサマ・ビン・ラディンもサダム・フセインも都合のいい時だけアメリカに利用された側面がある。アメリカは反タリバンの北部同盟を支援する形でアフガニスタン戦争を始めた。
制空権を持たないタリバンにとっては勝ち目のない戦だった。
アメリカ及び先進諸国の思惑通り、タリバン政権は崩壊し、オサマ・ビン・ラディンはパキスタンとの国境沿いへ逃亡することとなった。
テロの首謀者を匿うことはよくないことだ。その結果として為されたアフガニスタン戦争が何を生んだか。一般市民を巻き添えにした爆撃、誤爆が多く、戦争が終わった後のカンダハルにはクラスター爆弾の不発弾が大量に落ちていた。
アメリカの貿易センタービルでは3000人程の尊い命が失われた。
報復攻撃として為されたアフガニスタン戦争で亡くなった人の数はどれほどだろう。戦争での直接的な被害者だけでなく、戦争が起きたことによって食料、医療が滞って生き延びることができなかったアフガニスタン人が大勢いる。その数が語られることはないし、ニューヨークのように追悼式典が行われることも勿論ない。
そして、内戦で疲弊しきっていたアフガニスタンは新たな戦争により大量の難民が発生した。隣国のパキスタンに逃れた難民だけで450万人を越え、国際社会の難民支援は十分とは言えなかった。なんとかアフガニスタンから逃れ難民となったものの、難民キャンプでの過酷な生活に耐え切れず亡くなっていく子供や老人を沢山目にしてきた。
アフガニスタンの中でもタリバン政権は嫌だという意見も確かにあった。タリバンの行き過ぎた原理主義を嫌うアフガニスタン人も多く、もう少し自由な政権を望む声もあった。ところが、戦後のカンダハルでは女性に対する殺人やレイプ事件が多発して、「厳しすぎるタリバン政権下の方が外を出歩くことができた」という声が多く聞かれた。
タリバン政権を崩壊させたことがアフガニスタンにとって、国際社会にとって良いかどうかわからなかった。しかし、アフガニスタン戦争から15年を経た今、アフガニスタンは再び内戦に近い状態になり、治安は悪化の一途をたどっている。そして、タリバンは再び復活しつつある。
トップ画像:クラスター爆弾の不発弾を処理するアフガニスタンの地雷除去チーム ©久保田弘信
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この記事を書いた人
久保田弘信フォトジャーナリスト
岐阜県出身。大学で物理学を学ぶが、スタジオでのアルバイトをきっかけにカメラマンの道へ。パキスタンでアフガニスタン難民を取材したことをきっかけに本格的にジャーナリストとしての仕事を始める。9・11事件の以前からアフガニスタンを取材、アメリカによる攻撃後、多くのジャーナリストが首都カブールに向かう中、タリバンの本拠地カンダハルを取材。2003年3月のイラク戦争では攻撃されるバグダッドから戦火の様子を日本のテレビ局にレポートした。2010年戦場カメラマン渡部陽一氏と共に「笑っていいとも」に出演。