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スポーツ  投稿日:2026/2/2

大坂なおみの“涙”から5年 IOCがミラノ・コルティナ五輪で追求する過去最大規模の選手保護プログラム全貌 


松永裕司(Forbes Official Columnist)

【まとめ】

・大坂選手の経験を受け、IOCは「セーフガーディング」と「セーフスポーツ」を軸に組織改革を進め、安全をパフォーマンス最大化の条件と再定義している。

IOCはパリ2024大会よりAIによる「サイバー虐待防止サービス」を導入し、選手への誹謗中傷を事前に検知・削除する能動的な防御を強化、ミラノ大会に向け対策をさらに進化させている。

・選手の心理的な安全を確保するため、選手村に静寂な空間「マインドゾーン」を設置。「人こそが人を守る」との理念のもと、専門家「セーフガーディング・オフィサー」の世界的な育成・配置を進めている。

 

2026年、ミラノ・コルティナ冬季オリンピック・パラリンピックの開幕が迫る中、国際オリンピック委員会(IOCは、かつてない規模の「組織改革」を推進中だ。それは選手の心と尊厳を守るための、テクノロジーと人的資本への投資だ。

2021年、全豪オープンまでテニス四大大会を4度制覇を果たした大坂なおみが同年、全仏オープンでメンタルの不調を理由に会見を拒否。これに対し主催者側は会見拒否に対して1万5000ドルの罰金を科し、「拒否を続けるなら四大大会出場停止もあり得る」という警告した。

その後、大坂が発した「It’s OK not to be OK(大丈夫じゃなくても、大丈夫)」という米『Time』誌と自身のSNSから発信した悲痛なメッセージは、スポーツ界が長年、目を背けてきた構造的な欠陥を白日の下に晒した。勝利のために選手の精神をも食い物にするスポーツビジネス界は、もはや持続可能ではない、と。

写真)全仏オープン初日 ルーマニアのパトリシア・マリア・ティグ選手とプレーする大坂なおみ選手 2021年5月30日、フランス・パリ

出典) Julian Finney/Getty Images

あれから5年。IOCセーフガーディングのグロリア・ビゼラス・シニアマネージャーが1月28日17時(日本時間)、メディア向けに開催した「選手保護(セーフガーディング)」に関するラウンドテーブル。そこで示されたのは、あの日突きつけられた問いに対する明確な回答に思われた。それは、精神論ではなく、AI監視システム専門家を動員した実効性の高い選手保護の実装だった。

写真)IOCセーフガーディングのグロリア・ビゼラス・シニアマネージャー

筆者提供)

◾️IOCが書き換える強さの定義

冒頭、自身もスペイン代表体操選手だったビゼラス・マネジャーは画面の向こうの記者たちに対し、異例の言葉を口にした。「最初にお伝えしたいのは、このトピックが時に精神的な負担を感じさせる可能性があるということ。もし不快感を覚えたらカメラをオフにし、席を外し、ご自身のケアを優先してほしい」。

公式ブリーフィングの第一声が、メディアのメンタルヘルスへの配慮から始まる。この一幕こそが、IOCがいま目指している組織文化のアップデートを象徴している。IOCが掲げる戦略の中核にあるのは、シンプルで、人間的な一つの「問い」だ。

「我々の戦略の中心にある問いはシンプルで、強力だ。それは『Are you OK?(大丈夫ですか?)』という問いだ」。

IOCは現在、組織のリスク管理を「セーフガーディング」と「セーフスポーツ」という2つの概念で再構築している。同マネジャーの定義によればセーフガーディングとは「ハラスメントや虐待を予防・対応するための措置」であり、守りのガバナンス。対してセーフスポーツは、「参加者が活躍し、身体的かつ心理的に安全で支援的な環境を育むこと」と能動的に定義した。

重要なのは、IOCが安全を「パフォーマンスの阻害要因」ではなく「パフォーマンスの最大化条件」と再定義した点。「心身ともに健康であって初めて、選手は最高のパフォーマンスを発揮できる」。かつて大坂なおみが求めた「人間としての尊厳」は、いまやIOCの成長戦略のど真ん中に据えられている。

◾️ AIによる能動的防御、選手が「目にする前」に削除する技術

大坂や、アメリカの体操代表のシモーネ・バイルズを追い詰めた要因の一つは、SNS上の無慈悲な誹謗中傷。バイルズは2016年のリオ五輪において4冠を達成、21年の東京五輪においても米代表のエースと目されていたが、団体戦を棄権するなど、自らを守る行動を優先した。

SNSは、時として鋭利な凶器となる。よってIOCはパリ2024大会より、「サイバー虐待防止サービス」という対抗策を講じた。

ラウンドテーブルで公開されたその実績数値は、脅威の規模と対策の本気度を物語っている。IOCは主要SNS(X、Instagram、Facebook、TikTok)を対象に、大会期間中だけで240万件以上の投稿をリアルタイムでスキャン。AIはその中から15万2000件以上を「虐待の可能性がある」として検知。専門家の検証を経て、実際に1200件以上が「虐待」そのものと認定され、削除要請や法的措置が取られた。さらには8,900のユニークアカウントからの虐待的な投稿、加害者の特定も実施した。IOCはこれにより、1万400人以上の選手と関係者が保護されたとしている。

マネジャーは、このシステムの真価について「我々は選手が自分のスマートフォンで中傷を目にする前に、AIによりこれを検知、対処することが非常に有効だと学んだ」とした。

被害を受けてから相談窓口を設けるのではない。AIというデジタルの防波堤により、悪意が本人の目に触れる前に弾き返す。大坂が直面したような「デジタル・バイオレンス」に対し、組織がテクノロジーで盾を構築。これこそが現代の危機管理だ。

さらに、来たるミラノ・コルティナ大会に向け、システムはさらに進化。第一に、生成AIによる「ディープフェイク画像」への対策強化。AI技術の進化により、選手の画像を無断で加工したポルノや偽情報が生成されるリスクが高まっている。IOCはこれに対しても、AIをもって対抗、監視を強化。第二にプライベートなDM(ダイレクトメッセージ)の保護だ。通常、DMは監視できない聖域ながら、選手が「オプトイン」しシステムに接続すれば、AIがDM内に潜む有害メッセージも検知・隔離。個人のプライバシーを尊重しつつ、希望者には最大限の保護を提供する。

◾️物理的な聖域、「マインドゾーン」の実装

2021年の全仏オープンで、大坂が求めたのは、記者会見の喧騒から離れ、自分の心を整えるための静寂だった。IOCは2026年、そのような空間を物理的に創出する。それが、今回も選手村などに設置される「マインドゾーン」

紹介されたパリ大会での事例映像には、照明を落とした静寂な空間で、VRヘッドセットを装着し、瞑想プログラムに没入する選手たちの姿があった。「パリ大会では、多くの選手が夜寝る前や朝一番にここを訪れた。時にはただ静かに過ごすために、時にはスタッフと会話をするために」。そこには、専門のトレーニングを受けた「セーフガーディング・オフィサー」が常駐。専門家は決して押し付けがましくなく、しかし助けを求められれば即座に対応できる距離感でスタンバイする。

「時には、自分の身に起きていることが普通なのかどうか、ただ話を聞いてほしいという選手もいる」。トップ選手であっても、不安や脆弱さを抱えている。それを否定せず、弱さをさらけ出しても安全な場所を組織の中に物理的に確保する。これは大坂のようなケースを生み出さないための、空間デザインによる回答だ。

◾️「ポリシーは人を守らない。守るのは人」、そしてメディアの教訓

しかし、どれほど高度なAIや施設を用意しても、それだけでは組織は変わらない。「我々がこのプログラムをスタートさせた頃、“完璧なポリシー(規定)”の策定こそがすべてだった。だが、ポリシーそのものが人を守るわけではない。人こそが人を守る」と断言。

IOCはこの理念に基づき、ルール作りから人材育成へと大きく舵を切った。「IOCセーフガーディング・オフィサー」の認証プログラムを展開、これまでに112カ国で436名の専門家を育成。日本でも既に7名が認定を受け、さらに3名が受講中だという。

大坂が声を上げた時、必要だったのは規定改定ではなく、彼女の痛みに寄り添う専門家・保護者の存在だったはず。IOCは今、その「人」を世界中に配置しようとしている。

同氏はメディア関係者に向け、警鐘と希望の両面からこう語りかけた。「我々の言葉は意図しない害を引き起こし、偏見を強化する可能性がある。しかし、正しく伝われば、それは人々の人生を変える力を持つ」。リオ五輪でアフリカ系女性競泳選手として史上初の個人種目金メダル(2冠)を獲得したシモーネ・マニュエルも、メディアのあり方に一石を投じた一人だ。彼女も「不振なパフォーマンスの直後にインタビューを強制し、選手の感情を晒させるべきではない」と訴えた。選手に対し、配慮のない言葉を投げかけるメディアも、また精神的な「加害」になり得る。

今、IOCは、AIと人の手で選手と関係者を守ろうとしている。パリからミラノ、さらにロサンゼルスへ。スポーツ・ガバナンスは、メダルの色や数だけでなく、そのプロセスがいかに人間的で、倫理的で、安全であったかを問うフェーズへと移行しつつある。

メダルの数だけを、やたらと祭り上げる日本のメディアも、そろそろこの変革に気づかなければならない時代がやって来ている。自省も込めて。

 

写真)ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック開幕を前に披露されたオリンピック・リング 2026年1月31日 イタリア・リヴィーニョ
出典)Patrick Smith/Getty Images




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