平川祐弘先生とゴルゴ13(サーティーン)

牛島信(弁護士)
【まとめ】
・平川祐弘先生の自伝『一比較文学者の自伝』が出版された。
・著者は、この自伝の出版記念会に参加し、平川先生の完璧さがゴルゴ13の完璧さに通じると感じた。
・平川先生は日本の宝であり、その力量は94歳にして壮年を凌ぐと評されている。
平川祐弘先生が自伝を出されたことは前回にも触れた。題して『一比較文学者の自伝』(飛鳥新社 2025年刊)という。上下2巻、合わせて1252頁になる。重い。片手で上下を一度に持ちあげることはできない。その量の多さ、重さが平川先生らしい。質は量が一定以上であることを前提とすると仰っているような気がするのである。心から納得する。
平川祐弘は日本の宝である。その力量は94歳にして壮年を凌ぐ。先生が幼年、少年、青年、壮年、中年であった過去、そして老年である現在の活躍を自ら語る。面白くないはずがない。
私は、幸運なことに今年7月11日に開かれたその出版記念会に参加する機会を得た。会費2万円のうち1万円が自伝の代金とあって、さらに1000円が返ってきた。なぜ千円札が一枚入った封筒を渡されたのだろうと考えて、私は著者の印税分に違いないと思った。そういう方なのだと、ここでも納得した。
その平川祐弘先生とゴルゴ13がどういう関係になるのか。ゴルゴ13というのは、さいとうたかおという劇画家が1968年に連載を開始した劇画である。途方もなく高い報酬で殺人を引き受け、かならず実現する。嘘を言った依頼人には死がまっている。
平川先生の完璧さがゴルゴ13の完璧さに通じると思うからである。
私はゴルゴ13のファンになって50年以上にはなるだろう。或る知り合いがビッグコミック誌に連載されているのを紹介してくれ、読み、ファンになったのである。つい先日も大阪への出張の帰り、空港の書店で第217巻を求めた。仕事が終わっての飛行機の座席での消閑にこれほどのものはない。1時間のフライトの間に読み切ってしまうことが多い。そう感じ続けて、ゴルゴ13という劇画の本は、なんども空港の売店で求めている。今回も同じことをした。217巻が出ているから、それが最新刊に違いない。秘書にきけば未だ買っていない巻がどれほどあるかすぐにわかる。だから、それを買ってくれるように頼む。1,2日後には私の事務所の机の前にある会議テーブルに何冊ものゴルゴ13が積まれる。8冊くらいだったか。私は全巻を読み、書斎にそろえている。
私がゴルゴ13を好むのは、その完璧さである。もちろんフィクションだから可能なことに決まっている。しかし、劇画の一コマ一コマで彼は生きている。そう感じる。人殺しの依頼を、事情に自分が得心するかどうかだけを基準に、受ける。受けないこともある。依頼を受け、不可能と思われることを見事になし遂げる。そこに感傷はない。
報酬は途方もなく高い。彼の積み上げた資産が世界の外為相場を動かすほどの額になっていると読んことがある。それはそうだ。彼に頼めばアメリカの大統領を狙撃することもやってのけるだろう。そういえば、最近読んだなかにトランプ大統領と似た話があった。政治家の腹心が上司であるアメリカ大統領の狙撃をゴルゴ13に依頼するのである。ただし、大統領の殺害が目的ではない。狙撃を受けたにもかかわらず自分に銃弾が当たらなかった結果、自らが神に選ばれた人間であると信じこむのである。その巻には2019年のビッグコミック誌に掲載されたとあった。大統領候補であったトランプ氏が狙撃され、耳をかすっただけで済んだのは2024年7月13日のことである。彼は、シークレットサービスをかき分けて立ち上がり、拳を振り上げて「ファイト!」となんども叫んだ。
それにしても、なんという偶然の符合。
アメリカ人がどう感じたか、想像できる。
もちろん、ゴルゴ13がやったわけではない。トランプ氏が暗殺されなかったのはたまたまとしかいいようがないだろう。だが、彼自身を含め、それは必然だったのだと信じた人はたくさんいたに違いない。大統領選挙の結果を左右したかもしれない。思い出してみれば、トランプ氏は刑事訴追などで追い詰められていたのだ。
不穏当な結び付けかもしれないが、お許し願いたい。
つい最近、NHKの『映像の世紀』でヒトラー殺害事件について新しいことを知った。ワルキューレ作戦というヒトラー爆殺事件を生き延びたのち、ヒトラーに対するドイツ人の信仰ともいうべき崇拝は急激に上昇したというのである。もう敗色が濃くなり始めていたにもかかわらず、である。ナチス党への献金が急激に増加したという。暗殺未遂は1944年7月20日である。映像を精細にした画面は、ヒトラーが翌日ムッソリーニを列車に出迎える場面で右の耳にガーゼのようなものを当てている姿を示していたのだ。なんという偶然。
敗戦の8カ月前である。第2次世界大戦によるドイツ民間人の死者数200万人のうち半数はその日以降であったと番組は伝えた。その一人は私の息子だった、娘だった、父だった、母だったという人は数限りなくいるに違いない。
独裁者とはそういうものなのだと改めて思わされた。倒されなければ、決していなくならない。いる限りは暴虐の限りを尽くすことをためらわない。
平川先生の話に戻りたい。
私が平川先生に初めてお会いしたのは、先生が38歳のときである。私は20歳だった。私の駒場での担任であり、フランス語の先生でもあった。その後、20歳だった私は75歳になり、38歳だった先生は94歳になられた。
私が平川先生とお話する機会を得たのは、私が『株主総会』という小説を出した1997年よりも後のことである。恐る恐る献本したところ、なんとほめてくださったのである。前回も書いたとおりだが、平川先生の名著『和魂洋才の系譜』(1971年 河出書房刊)のあとがきは、少なくとも献呈する前に読んでいたのに違いない。その平川先生のお考え、再掲すると、「自分が所属する学会や学生や知識人を相手とするだけでなく、銀行家、外交官、商社員など実生活の体験に恵まれた方にも読んでいただけるような学術書を世に出したいと願っていた。」にほんの少しでも沿うところがあったと思ったから差し上げる勇気が持てたのだという気がする。少なくとも、私は弁護士で専業の作家ではないことだけは確かである。そういえば、私は『株主総会』のあとがきに「もともと私は、小説は文学の一部分であって、散文という広い観点からみるならば、われわれ法律家の書く文章、たとえ起訴状や判決文、またそこへいたる過程で弁護士が精魂を傾けて書く準備書面という名の一方当事者の主張をまとめた書面も優れて散文、すなわち文学の一部であろうと本気で考えてきた。」と書いている。
平川先生のことを思うと、いつも天賦の才、そして、天の選び与えた道を素直に、力強い足取りで、丹念に、倦むことなく歩み続けている方という気がしてならない。
下巻340頁に「年賀状に書いた私の詩をならべると、私の生涯はほぼ辿れる。」とあった。驚いた。恥ずかしくなった。
私が今年の4月に『年賀状は小さな文学作品』(幻冬舎)を出したことを思いだしたからである。私は恥ずかしい。平川先生に似たことを考え、恐れもなく出版してしまったことを、である。
それにしても、今回の自伝で平川先生の若いころからのお写真を何枚も拝見した。そして驚いた。なんとも二枚目、イケメンなのである。殊に、東大の学生時代の写真がほれぼれとさせる。ほんの少し上目づかいのその若者は未来を自分の二つの目で見すえ、その時から70年以上を生き、学び、書き、話し続けているのである。
最後に一つ。自伝上巻54頁に「七十代半ば、外国語の積極的学習をしなくなった頃から不思議な現象が生じた。著作刊行のテンポが前より速く」なったと書かれている。私は70代半ばである。師は上記引用のすぐ後に「日本語でも英語でもフランス語でも次々と書物を世に問うことを得た。」と書かれている。日本語でしか本を出さない私は、それでも師の影から遠く離れたところを恐る恐る歩いていくつもりでいる。そうした私が滑稽であることは私のせいではない。平川祐弘が例外でなのであって、私は普通で、かつ私にはこれしかできないのである。
一言にすると、私にとって平川祐弘先生とは遥か彼方に仰ぎ見る富士の山なのである。
出典:Grzegorz Zdziarski by getty images




























