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.社会  投稿日:2026/1/14

三たび平川祐󠄀弘について


牛島信(弁護士)


【まとめ】

・平川祐󠄀弘氏の約1500頁に及ぶ『一比較文学者の自伝(上下)』を読み、その人柄と学問的姿勢に深い敬意を込めて読後感を述べる。

・ガンジーとチャーチルの対比を軸に、第二次世界大戦を「太平洋戦争」と「大東亜の戦争」の両面から捉えるべきとする平川氏の複眼的歴史観。

・平川氏が紹介するインド国民軍裁判やネルーの証言を踏まえ、日本が自ら戦争責任を総括しなかった戦後史に疑問を呈し、「歴史を素直に見つめる」必要性がある。

 

 平川先生の書かれた『一比較文学者の自伝 上下』については、以前にも触れた。

 全1500頁余を正月休みのお蔭で読了したので、以下に感想を述べたい。下巻を読み終えたのが8月30日。上巻は年が明けた1月10日であった。10日朝5時すぎに目が覚め、読み継いで読み終わったのである。

 ちなみに、師の今年の年賀状には「足弱となり、散歩がままならず」とあった。私には新年早々の衝撃であった。「北極星が天空から消えてしまったらどうしよう」と一瞬思ったのである。

 ただし、賀状の大半は縷々源氏物語について書かれており、その日英版にふれられ、さらに与謝野晶子の現代語訳を掲出され、その「いかまほしき」について、中国語訳では行くではなくこの世で生きることだわかりますかどうか、と触れられている。

ご健在である。

上巻。

 再度、口絵にある「東大時代、初めて髪を伸ばした。」とある写真のイケメンぶりについて書かずにいられない。私が初めてお会いしたのは師が38歳のときであるから、この写真とは違って、もう大人になっておられた。しかし、この写真には、若い師、まるで今の時代のアイドルのような師がいる。感慨ひとしおである。

 上記のとおり、早朝に目覚めて読んだときに以下の部分がとても心にしみた。

 「二十世紀の二大巨人」と題する節で、ガンジーとチャーチルに触れる。

 「ガンジーとチャーチルの対抗関係を読むと、チャーチルが体現した大英帝国主義なるものの暗黒面が明るみに出る。」とある。「そして複眼の歴史観で過去を振り返ると、私たちは歴史の再解釈を迫られる。日本人はあの戦争についてあくまで連合国の立場に立って正邪の判断をくだすべきなのか。」と続く。(658頁)

 師はこの点について「しかし宗主国英国と植民地インドの関係でみると、正義・不正義の区分はそうはならず、むしろ逆である。日本はアジア解放を唱えた。その『大東亜戦争』とは口実で、日本のアジア支配を意図した侵略戦争と断ずべきか。それとも三分の理はあったのか。」とされ「あの戦争には地理的にいうなら正面の『太平洋戦争』とともに側面に『大東亜の戦争』があったことは否定できない。」(659頁)と淡々と述べる。

 転じて、師が『ガンディーとチャーチル』(アーサー・ハーマン 白水社)という本の解説を頼まれた経緯に触れた部分は、まことにその「以外な経緯」が自伝にふさわしい。

 翻訳者である守田道夫は師の二歳年上の従兄であり、「戦後、学者家庭の貧窮に反撥し、実業の社会に進んだ。」とある(661頁)。丸紅に勤務し大学で非常勤を勤めていたその守田氏は、著者からSukehiro Hirakawaの書いた本を推奨されたというのだ。「あのちゃんが」と守田道夫は叫んだ、と師は書いている。読者である私は、<あ、ここに師が『西欧の衝撃と日本』において商社員などに読んでもらえる本を書きたいと述懐した原点があたったのか>と想像を逞しくする。

 師の「第二次大戦は当時を生きた子供心にこんな経過をたどった。」とする、その経過とは、

①     支那事変は、そのころの朝日新聞が見出しに言うところの「暴支膺懲」の戦いとして始まった。

②     だが、中央政府の言うことを聞かぬ日本陸軍は中国戦線を拡大するという誤りを犯し、引くに引けなくなり「大東亜戦争」に勝算もなく突入した。

③     なによりも大失策は、日本がナチス・ドイツと同盟したことで、そんな愚を犯したために結局世界を敵にまわし、一九四五年八月に降伏した。

④     占領軍当局は日本人が「大東亜戦争」と呼ぶことを禁じ「太平洋戦争」と呼ぶよう命じた。

 しかし、師は言う。「あの戦争によって西洋植民地主義にも日本植民地主義にも終止符が打たれたのは史実で、だとするとインド側の視点から振り返ると何と言えるのか。」(662頁)

 さらに、インドの初代首相ネルーの『自伝』に触れる。

 ――十五、六歳のころは日露戦争で、日本が次々に勝利をおさめる様に興奮し、毎朝、新聞が待ち遠しくてたまらなかった。

 663頁には、「少国民東京代表として、祝賀放送をしているマイクの前の少年の写真が出ている。「1942年、シンガポール陥落。2月18日、第一次戦捷径祝賀大会の当日、小学校4年生の筆者」と説明書きが付されている。なんと、師のご母堂が亡くなられたのち、仏壇の裏から出てきたのだという。そして「上級生が書いた作文を朗読した」ともある。(664頁)

 私はニュルンベルグや東京裁判に先立ち、イギリスが開こうとしたインド国民軍に対する裁判が抗議するインド人の一大運動で裁判ができなかったことは知っていた。しかし、「イタリアでは裁判はイタリア人の手で行われた」(665頁)のは知らなかった。

 私自身は、日本は日本人の手であの戦争についての裁判をしていないことを残念に思っている一人である。国民はどう考え、どう導かれたのか。誰が最も責任があるのか。不明なままの80年である。

 付け足すと、師は「戦後、シンガポールを訪れたネルーは戦争中に日本がインド国民軍のために建てた碑の前で感動してたたずみ、頭を垂れた。」と記している。その碑は一度英国によって撤去されたが、シンガポールが独立するや、新しい碑が建てられたとも記す。(666頁)

 そして、師は、英国の帝国主義も日本の反帝国主義的敵国主義も終わったと、一九九一年、漱石の『心』についてかの地で講演した際に述べたとある。

 「歴史を素直に見つめたい」と節の冒頭に記す師こそ、まことに日本を導く方であると私は思っている。

トップ写真)Marines Landing on Iwo Jima Beach
出典)National Archives – Stills/Getty Images 




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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