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その他  投稿日:2025/7/15

猫に小判


牛島信(弁護士) 

【まとめ】 

・学生時代殆ど授業に出ず、自宅で本を読む生活を送っていた。 

・後に担任であった平川祐弘教授著『和魂洋才の系譜』に感銘を受け自著を送り、高い評価を頂いた。 

・筆者「猫」にとって平川師は「小判」であり、生徒としての修行は始まったばかり。

 

私は猫である。 

べつに漱石を真似て書いているわけではない。世に「猫に小判」という、あれである。 

私は1970年、昭和45年4月に平川祐弘教授にお会いした。私がいた駒場のクラスの担任でありフランス語の先生だったのだ。 

しかし、私はフランス語の試験を受けに大学の教室に出かけて、平川先生に「君は見かけない顔だね」と言われるほどに授業に出たことがない学生生活を送った。ただし、駒場では体育実技だけは出席しなければならなかったので、その日だけ、必ず登校した。また、フランス語そのものも、『ジュール伯父さん』というモーパッサンの短編小説が教科書だったから、私は青柳瑞穂の訳の文庫本を手に入れてそれで自宅で独学していたので、合格点をとることに不安があったわけではない。要するに、ものぐさで大学へ行くのが面倒だっただけなのである。 

 

自宅にいてなにをしていたのか? 

本を読んでいた。自らの好む本を読んでいた。文学から天文学まで。55年経ったいまと少しも変わらない。 

東大へ合格するための受験勉強に苦労した私にとっては、大学は入るためのもので、入って勉強するところだとは考える余裕がなかったのだと、今にして、思う。気の毒なことである。東大入試が無かった年があった、ということも理由の一つかもしれないが、なに、実力不相応に東大という名前にこだわっていたのである。 

それは両親、なかでも父親が一高東大出身の上司に苛められたことに発する。などと云いだせば切りのないことである。私は小学校の5年生から一貫して、自分の人生を東大に合格するためにあるとしか考えて来なかったのだ。不思議といえば不思議である。 

なんにしても、そうした次第で、東大に入学してしまってからは、まるで何かに復讐するかのように大学の授業というものを忌み嫌っていたのである。素直に現役で合格していれば別の人生もあり得たろうと思わないでもない。しかし、その別の人生は学生運動に熱中したあまり警察の世話になり、いっぱしの革命家を気取ることになっていたかもしれない。そうでないとしても、反対に鼻持ちならない役人になって、汚職で逮捕されるようなことになっていたかもしれない。どちらのためにも、体育実技に出席する以外のことは要求しないのが、当時の東大であった。 

前置きが長くなってしまったが、そんな次第で私は平川祐弘という偉大な学者、人格の身近にいながら、まったくといっていいほど接触の機会を持とうとしなかったのである。38歳の平川先生は若く、頭髪の頂上部分が上に跳ねていたのを憶えている。何回かはフランス語の講義に出たのであろう。「僕はフランス語よりもイタリア語のほうが得意なんだ。」と、既にダンテの『神曲』を訳出した権威であるとも知らず、「どうしてメディアで加藤周一のように活躍していないのだろう」としか考えていなかったのである。 

本の世界からしか世の中を見ていなかったのだろう。加藤周一にしても、受験勉強の途中に出会ったのだ。高校3年生のとき加藤氏の『廃墟の美』を模擬試験の問題文として読んだのが最初だった。私は、受験勉強中だったにもかかわらず、その文章の収められている『芸術論集』を買って読み耽った。 

いや、朝日ジャーナルに連載されていた『羊の歌』の方が先だったのかもしれない。今、加藤氏の著作集14巻の『羊の歌』の初出一覧で調べてみると、1966年から1967年までの連載だったようだから、どうやらこちらの方が先だったようだ。しかし、私が模擬試験で『廃墟の美』に出会ったのは、確かに1967年12月のことだと憶えている。したがって、『廃墟の美』で加藤氏の文章に惹かれ、自宅に積んでいた朝日ジャーナルを取り出したのかもしれない。そういえば、毎週楽しみにして読んでいたという記憶はないから、そういうことだったのだろう。 

 

どうも脇道ばかりを歩いている。 

加藤氏は、自ら記しているとおり、道徳的に良い人間ではない。私なども、平川先生に学生時代に薫陶を受けていればまったく別の人生を歩んでいたのかもしれない、と書きたかったのである。 

私は間近にいらした平川先生には接触することがなく、初めて小説を書いた1997年になって初めて親しくお話を伺う機会を得たのである。『株主総会』という小説を書いて、どうして平川先生にお送りしたのか。 

それは、平川先生が1971年に書かれた『和魂洋才の系譜』を1998年になって読んで、そのあとがきにあった「筆者はかねがね自分が所属する学会や学生や知識人を相手とするだけでなく、銀行家、外交官、商社員など実生活の体験に恵まれた方にも読んでいただけるような学術書を世に出したいと願っていた。」とある部分に、感銘を受けてのことだったのだと思う。読み終わったのは1998年の6月28日と記録しているが、このあとがきを読んだのはずっと以前だったに違いない。初版の出版は1971年の本であるから、読んでいて不思議はない。 

それで、平川先生に、「実生活の体験に恵まれた」弁護士の書いた小説をお送りする気になったのだろう。 

平川先生は、私の書いた小説を高く評価してくださり、南日本新聞に好意あふれるご紹介を書いてくださった。また、岳父である竹山道雄について書かれた『竹山道雄と昭和の時代』には「竹山道雄伝を雑誌に連載しはじめて二通の印象的な感想をいただいた。一通は国際派の弁護士でありながら企業小説の作家で、かつて私の学生だった方である。」として、私の差し上げた手紙に触れて「日本に軍部にも、ナチス・ドイツにも、共産主義にも、人民民主主義にも反対し、戦前も戦後も一貫して反専制主義の立場を変えなかった人がいたと知って日本人として誇りに感じる、というものであった。」とさりげなく触れてくださった。(同書491頁) 

その平川祐弘先生が『一比較文学者の自伝』(飛鳥新社)を出された。 

月刊Hanadaに連載されていた当時から、私は毎号拝読していたからどの頁も読んでいるはずなのだが、本を読んでみるととにかくめっぽう面白い。 

 

なぜか? 

「フランス文学などやっていたのは、ごま化しだった。戦後の日本人が問題にしなければならない外国とは、なによりもまずアメリカだったのだ。そのことがこちらに来てみてよくわかった。」と江藤淳が書いていると、平川氏は自伝のなかで告白している(下巻31頁)。 

江藤淳は続けて、「この言葉を聴いたときの電撃に打たれたような感銘を、私は忘れない。この人もやっぱりそう思ったのか。アメリカという国は、それを正面から受けとめようとする人にとっては、今もなおそういう「重苦しい」存在であるのか、という思いが、そのとき私の胸中にこみ上げてきたからである。」 

後に『平和の海と戦いの海』という本になる『新潮』誌の平川氏の論文について、江藤淳が毎日新聞に書評を書いていたのだという。江藤淳は、平川祐弘について「篤学誠実な人柄にいつも尊敬の念を抱いていた。」と書いてもいる。 

私は平川祐弘の晩学の生徒である。それが晩年に可能であったことは天に感謝しなければならない。私などにはもったいない師である。冒頭に記したとおり、私は猫で平川師は小判なのである。 

私は自分の平川祐弘修行が始まったばかりに近いと思っている。幸い94歳になられた師は、奥様ともども相変わらずお元気である。日本のために長生きしていただきたいと心から願わずにおれない。  

 

トップ写真)猫の写真素材 

出典)EyeEm Mobile GmbH/Getty Images 




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