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.国際  投稿日:2025/8/15

ベトナム戦争からの半世紀その28 ベビー・リフト作戦の悲劇


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」995

【まとめ】

1975年4月4日、孤児救出作戦「ベビー・リフト」第一陣の米軍C5A輸送機が墜落し、305人中約150人の子供と約50人の大人が死亡。

・戦禍からの避難を目的としたが「大量誘拐」との批判もあり国際的議論に。

・記者が現場で目にしたのは、血と泥にまみれた幼い遺体や遺品が散乱する、言葉にできないほどの悲惨な光景だった。

 

 危機の迫った南ベトナムの首都サイゴンで、新たに大悲劇、大惨事が起きた。飛行機の墜落で多数のベトナムの子供たちが死ぬという出来事だった。1975年4月4日だった。

 

 その日の夕方、サイゴンの毎日新聞支局にいた私は近郊のタンソンニュット空港近くで大きな航空機が墜落したという情報を得た。知人からの電話連絡だった。

 

この時期の私は北ベトナム軍の北部や中部での破竹の進撃や南ベトナム側の政府や軍の対応という激変を追って、日夜の報道活動に没頭していた。サイゴン市内外を取材のために動く際には自分で車を運転することが多くなっていた。支局にも取材用の車と運転手がいたが、もともと運転に慣れていた私が使い慣れた自分の車で動き回る方が便利という場合が増えていた。

 

 この日の墜落は私のベトナム戦争取材の体験の全体を通しても、最も悲惨、最も残酷な光景となった。なにしろ幼い子供たちが多数、一気に死んでしまったのだ。現場に向かう前に緊急に基本の情報を集めて、この悲劇の輪郭を知った。

 

 危機の迫ったこの時期の南ベトナムでは従来から数の多かった孤児をアメリカ人の実子のいない夫婦などの養子にするという事業が始まっていた。アメリカ側では軍事介入はもうなにもしないという大前提は揺るがなかったが、南ベトナム全体に戦争の危険が襲うとなると、両親のいない子供たちをアメリカに引き取ろうという民間主体の事業がフォード政権や議会の支援まで得て、開始されたのだ。

 

そもそもアメリカ側では戦火の広がったベトナムで親の保護のない孤児たちは悲惨な目にあうだろうという、ごく平板な人道主義から始まった救出のキャンペーンだった。ベトナムの乳幼児を大量にアメリカに連れていくという方針には国際的な障害や抵抗もあった。

 

だが「ベビー・リフト作戦」と呼ばれ、官民のプッシュが始まった。実態としては「ベトナム孤児救出作戦」だった。この救出作戦の第一号機が離陸直後に墜落したというのだ。

 

 まずタンソンニュット空港へと車を飛ばした。ここは民間の空港と軍用の空軍基地とが隣り合わせとなった広大な施設である。空港に近づくと異様な数のヘリコプターが飛びかっていた。私は空港内の軍のヘリポートに入って、周囲を見回し、すぐに目をそむけた。つぎつぎに着陸してくるヘリからは小さな肉塊が降ろされ、担架に乗せられて、医療用の救急車両に乗せられていく。そのほとんどが小さな子供たちなのだ。生死の別もわからないまま、ぐったりとした小さな体が運ばれていく。血と泥にまみれた衣服から幼い手足が出ている。まさに地獄絵のような光景だった。

 

 その場で救急にあたるのは意外とアメリカ人が多かった。みな民間の救急医療隊という感じの男性だった。そんなアメリカ人がベトナム人の医療従事者と思われる男女と一緒に必死で救助に従事していた。墜落したのはアメリカ軍の輸送機でも最大のC5A機だとわかった。米側の民間航空会社から委託を受けての緊急発進だったようだ。その墜落の地点は空港から北に30キロほどの湿地帯だと聞いた。私はとにかく墜落の現場をみようと車をまた走らせた。

 

 サイゴン地区から国道13号線を北に、多数のヘリが蝶のように舞っている地域、そして黒煙や赤い炎までが散見される地域を目指した。直線距離で30キロと聞いていたが、意外に墜落現場には接近できず、国道13号線から間道に入り、水田や湿地帯の間の細い道を慎重に走った。やがて陰惨に広がる湿地がみえ、そこが墜落現場だった。車を降りて進んだ。

 

 足首まで水につかって歩き回った。黒いボロ切れのようになった人間の体がヘリに乗せられていく。あたりがもう暗くなっていたことがかえってその凄惨な光景を直視させないことになり、衝撃が薄らいた。だが足元に引っかかった赤い布切れをよくみると、子供用のエプロンだった。見回すと、小さなハンドバッグや人形、おもちゃなど、幼い子供たちを思わせる持ち物が散らばっていた。ベトナム人の少女をアメリカ人らしい中年女性が抱いている写真までが目についた。

 

 墜落して破壊したC5A機の巨体からはまだ赤い炎や黒い煙があがっていた。

 「あのなかにはまだ人間が残っているんだ」

 南ベトナム軍の兵士が機体を指さして、告げた。南軍の一個中隊ほどが動員され、救出作業に協力しているとのことだった。

 

 墜落したC5A機には合計305人ものベトナムの孤児が乗っていたことがわかった。そのうち150人ほどが死亡した。同機にはつきそいのアメリカ民間人なども同乗していた

そうした成人たちが50人ほども同時に死亡した。このC5A機はアメリカ官民あわせて最大の輸送機とされていた。軍事用には大きな戦車3台を同時に乗せて飛べるほどの収容能力だったのだ。

 

 この孤児救出の作戦はアメリカ側の民間のワールド航空がエド・デーリー社長を先頭に全社をあげて参加していた。この墜落の少し前にパイロット出身のデーリー社長はダナンの難民救済に乗り出し、みすから自社のDC8機を操縦して、60人ほどのベトナム人の子供たちをダナン空港から避難させていた。だがこの行動をアメリカ政府は危険すぎるとして介入し、政府機関である国際開発局に担当させた。そしてその政府事業としての第一号機としてサイゴンからの避難にC5Aを提供したのだった。このC5A機はたまたま南ベトナム政府軍支援のための兵器と弾薬を積んで、サイゴンに着いていたのだ。その帰路に子供たちを乗せたわけだった。

 

離陸直後に墜落した原因はドア部分の大きな故障だとされた。少なくとも軍事的な攻撃やテロ行為の痕跡はまったくなかったという。

 

 このベビー・リフト作戦は国際的に議論を呼んだ。一つには北ベトナム側がこの「救出」を「ベトナム人の子供の大量誘拐だ」として公式に非難した。実際にはアメリカでの養子の対象となった子供たちはベトナム女性とアメリカ軍将兵の混血が多かったが、親に放棄されたとはいえ、それまでベトナム人として育てられてきた。だから「ベトナム人の子供のアメリカへの拉致」という批判にも理はあった。それに加えて南ベトナム側の一般市民の間にも、国家の危機のなかで自国の子供たちが集団でアメリカに連れていかれることへの反発もあったのだ。

 

この是非論は日本の一部でも展開された。だがサイゴンからはこの悲惨な事故にもかかわらず、第二陣、第三陣の孤児たちの集団が空輸されていった。しかしその第一陣の多数の幼い命が失われたことの悲惨さはその現場をみた私には長く忘れることはできなかった。それは言葉では表現しきれないむごさだったともいえたのだった。

 

(つづく)

トップ写真:Bettmann by getty images




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