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.国際  投稿日:2025/10/24

ベトナム戦争からの半世紀その42  戦場が迫ってきた


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

古森義久の内外透視

【まとめ】

・サイゴン陥落直前、連日の砲撃の中で市民の恐怖と混乱が広がっていた。

・友人の女性を国外へ避難させようと奔走したが、彼女はすでに基地へ向かった後だった。

・脱出を試みる南ベトナム人で溢れるタンソンニュット基地で、戦争の終焉と人々の絶望を目の当たりにした。

 

 サイゴン市街への砲撃は連日となった。4月28日の未明、私のアパートはまた根底からの衝撃を受け、目がさめた。前日の未明にも同じような砲撃がサイゴン市内に向けて加えられた。いつどこへ落ちてくるかわからない砲弾の衝撃を闇のなかで待ち受けるのは、なんともいえないやり切れなさを覚える。一発、二発と、とどろいてくる砲弾の落下音を身をすくめて感じても、自分にできることはなにもない。ただ自分の周囲に落ちてこないことを祈るだけだ。そんな感覚は全身の力を奪っていく。まさに体も心もへたへたと弱っていくという実感だった。

 

 外が少し明るくなったので、電話でできる範囲の情報を集め、街路に出た。午前4時すぎだった。この未明、砲撃に呼応したように革命側の特攻ゲリラ部隊がサイゴン市内から橋一つをへだてただけのジアディン省ヒエプビン地区のアメリカ政府国際開発局の広大な倉庫地帯に突入してきたのだった。突入部隊は数十人の小規模であり、明らかに北ベトナム軍の正規軍のサイゴン総攻撃ではなかった。その前哨戦とも映るゲリラ攻撃だといえた。アメリカ政府の国際開発局といえば、長年のアメリカ政府から南ベトナムへの経済援助の担い手だった。その施設に標的をしぼっての特攻作戦というのもアメリカ排除という政治的な意味が込められていたのかもしれない。

 

 サイゴンの中心部からサイゴン橋と呼ばれた、その橋まではわずか4,5キロだった。だからその橋のすぐ向こうの倉庫地帯での戦闘は一端が市内からも目撃できた。市内のこの方面は南ベトナム軍の空挺大隊がなお防衛にあたっていた。その空挺の武装ヘリが出動して空からゲリラ部隊に銃撃を加える。ゲリラ側も倉庫地帯に立てこもって激しく反撃する。硝煙や銃撃音をあげる戦闘がその朝は何時間も続いた。戦場がサイゴン市内の目前に迫ってきたのだった。それまで戦場といえば、いつもサイゴンから自動車や飛行機で時間をかけて出かけていき、目撃をして報道するというのが定型だった。だがいまは戦場がサイゴン市街ともいえる目の前まで迫ってきたのだ。危機の切迫を改めて実感せざるをえなかった。

 

 この同じ4月28日の午後、私には一つ大切な作業があった。フランス語の個人教授をも受けた友人のタムさんの国外避難を助けることだった。国立銀行に勤めていたタムさんとは国外脱出の是非を議論したことはすでに書いたが、私としてはやはり本人の意思を尊重するという結論にいたった。そのための現状での最も確実な方法はアメリカ人の保証を得ることだった。その点を親しい友人となっていたUPI通信のビル・ライリー記者に相談してみた。するとライリー記者はいきなり質問してきた。

 「その女性は君にとって大切な人なのか?」

 私は直直に答えた。

 「いろいろ世話になったので恩義を感じている友人だ」

 「よし、彼女を俺の妻ということにしてやろう。そうすれば簡単に米軍機に乗れる」

 

 ライリー記者は簡単に便宜上の結婚の手続きに応じてくれた。彼はアメリカ人であり、そもそも独身だった。今回の騒動でもまだその種の証明書にサインしたことはないという点にも安堵できた。そのための書類を用意して28日の昼過ぎ、サイゴン市内の住宅地のダカオ地区にあるタムさんの実家に出かけていった。私が自分の車を運転した。

 「さあ、いよいよ妻との初対面か」

 軽い冗談まで口にするライリー記者とともにタムさん宅を訪れると、母親が出てきて「タムはつい1時間ほど前に別のアメリカ人の知人に連れられて、タンソンニュット基地に向かいました。あなたには大丈夫だからという伝言を伝えてくれと頼まれました」と告げた。この点は私に非があった。実はライリー記者の結婚証明書も3日ほど前にできていて、その時点からタムさんにはいつでも出発できるように準備をして待つように伝えていたのだ。だが私の方の仕事のために、つい一日、二日と遅れてしまった。その間、タムさんは必死の思いで待っていたわけだ

 

 だがここまできた以上、タムさんの後を追ってみようと思った。タンソンニュット基地でのアメリカ政府によるアメリカ関連のベトナム人たちの大量出国の状況をこの目で見たいという意思もあった。

 

同基地内外は信じられないほど多数の人間であふれていた。入り口はどこでも武装兵士が立って、ベトナム人の入場を厳重に点検していた。国外へ出られる証明書があるか否かを調べるのだ。しかし実際にはアメリカ人に同行されているベトナム人たちは家族まるごと、入場を許されていた。なにしろアメリカ政府がかつて米軍やその関連政府機関で働いていたベトナム人を共産側からの保護のために国外へ脱出させるという大規模な輸送作戦を実施していたのだ。

 

 タンソンニュット基地はかつて「東のペンタゴン」とも呼ばれた巨大な米軍基地の司令部に加え、南ベトナム政府軍の主要拠点でもあった。その広大な基地に隣接して民間機の発着する国際空港があった。いまはその軍民の多様な施設が一体となって、無数のベトナム人たちを米軍のC130とか、C5A という輸送機に乗せて、次から次へと国外へ運ぶ作業を昼夜、続けているのだった。この種の輸送機の行先は当面はフィリピン、台湾、あるいはタイ、さらにはアメリカ領土のグアム島という近隣の地点だった。

 

 ライリー記者とともに、外国記者章を見せながら基地内に入ると、あらゆる建物も空き地も人間で満ちていた。広いテニスコートの内外も人間の波で埋まっていた。テニスコートの入り口にアメリカ大使館員らしい男女の職員がデスクを設けて、座っていて、ベトナム人の書類をチェックして、OKとなれば、テニスコート内に入れる。その集団はもう輸送機への搭乗を許された、ということで、次々と機内へ向かう。テニスコートに外に残された人たちはなお必死でそのチェックをなんとかくぐりぬけようと、待っているのだった。アメリカ大使館側も正規の書類を持参した人々の搭乗を終え、なおゆとりがあれば、書類不備とされた人々をも避難させるという対応のようだった。だから多数の人々がとにかく必死で待ち続けるということだった。

 

 こうして国外へ脱出しようとするベトナム人の数は明らかに数万単位にみえた。なにしろ視野の範囲内がすべて人間の集団なのだ。しかも子供連れの家族が食料まで用意して、建物内にすでに何日も寝泊りしてきた、というふうなのだ。しかしサイゴンではなお徹底抗戦や停戦交渉を唱えて、北ベトナム軍の総攻撃に備える人たちもいるのに、その一方ではこれだけの人数の南ベトナム国民がすでに国外への脱出を図っているのだ。

 

 そんな熱気の人間集団を次々に眺めていると、一つの建物の内部から私の名前が呼ばれるのを聞いた。目の前に飛び出してきたたくましい男性は南ベトナム軍の武道教師だった。柔道や空手を軍人たちに教える師範で、私も何回か顔をあわせたことがあった。

 

「ミスター・コモリ、私たち一家はここまできたのですが、身元を保証する書類がないのです。あなたが日本人としてでも、保証人になってくれませんか。お願いします」

 

 彼は懇願してきた。私がこの状況ではアメリカ人の保証書でないと意味がないだろうと説明しても。彼はそこをなんとか、と涙まで浮かべて乞い続けた。すると彼の横には夫人らしい女性や十代にみえる子供たちが並び、私に向かって、「このまま残れば、共産軍に殺されるので、なんとか助けてください」と懇請を続けるのだった。私は心を痛めながらも、具体的にはなにもできなかった。

 

 ライリー記者と私は結局、タムさんを見つけることはできなかった。人々の流れから判断して、すでに航空機に無事の乗れたのだろうと判断した。

 

(つづく)

 

トップ写真:American Troops Leaving Vietnam

出典:Bettmann by gettyimages




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