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.国際  投稿日:2025/8/28

ベトナム戦争からの半世紀 その32 「ホーチミン作戦」の開始


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」1002回

【まとめ】

1975年4月、北ベトナム軍のズン参謀総長は南ベトナム領内の秘密司令部(COSVN)に入り、労働党の最高指導者たちと合流した。

・そこには国際的にも著名なレ・ドク・ト氏も到着し、サイゴン総攻撃「ホーチミン作戦」が正式に伝達・発表された。

・この結果、ズン将軍を司令官とする「サイゴン解放作戦司令部」が設立され、サイゴン包囲・陥落への体制が整った。

 

 さて北ベトナム軍の動向へ目を戻そう。北ベトナム人民軍のバン・チエン・ズン参謀総長が南ベトナム領内の秘密の作戦本部に入ったことはこの連載の「その27」で報告した。1975年4月3日だった。北ベトナム軍の大部隊は中部高原や北部のフエ、ダナンという要衝をすでに制していた。その勢いをかって中部の海岸のニャチャン、カムランという南側の重要拠点をも制圧し、サイゴン政権要人の避暑地だった名勝のダラトをも占領した。

 

 そんな勝利の戦況を前線の最高責任者となったズン参謀総長はどうみていたのか。戦後に公表されたズン戦記から追ってみよう。

 すでに述べたように、ズン将軍は4月3日にビンロン省ロクニン近くの秘密司令部に到着した。この司令部は北ベトナムの労働党の南ベトナム領内の総指揮所だった。サイゴンから北に国道13号線を150キロほどの距離にあるロクニンの町はカンボジア国境に近く、街からちょっと離れると、山岳や密林が広がる。

 

この北側の秘密司令部というのは長いベトナム戦争の歴史のなかでも最大の謎のひとつだった。アメリカや南ベトナム側ではその存在自体の有無が議論の的となった。そもそも南ベトナム領内でアメリカ軍や南ベトナム政府軍に対して軍事攻撃をかけてくる武装勢力とはなんなのか、だれなのか。北ベトナム側はそれは南領内の独自の革命勢力だと主張していた。南ベトナム民族解放戦線だということだ。北ベトナム自体は軍隊を南に送りこんではいないと主張した。だから南領内に北ベトナム側の秘密の総指揮所などない、ということになる。

 

だがアメリカ軍や南政府軍の主として情報機関は北ベトナムの南領内の秘密指揮所はまちがいなく存在すると主張した。北ベトナム側でのその名称は「ベトナム労働党南ベトナム中央執行委員会」だとされているとも断定していた。英語名での頭文字をとってCOSVN(コスビン)とも呼んでいた。だがそんな指揮所は実在しないという否定論もあった。当事者の北ベトナム政府がそう述べていることが大きかった。             

ところが戦争の終わりに近づくにつれ、北ベトナム自体がそんな虚構をあっさりと捨ててしまった。この闘争は最初から最後まで北ベトナムに本拠をおくベトナム共産党――その名称は一時はインドシナ共産党、あるいはベトナム労働党――が主導し、実行した闘争だったと全世界に向けて宣言したのだ。南ベトナム領内に北ベトナム軍の将兵はひとりたりとも入っていない、という長年のフィクションはみごとなほどあっけなく放棄したのだった。

 

とにかくズン参謀総長はその指揮所に入った。ズン将軍自身はこの指揮所を「労働党南ベトナム中央局指揮所」と呼んでいた。労働党というのはすでに何度も説明したようにベトナム共産党が闘争の便宜のために一時、採用していた仮の党名称である。この中央局指揮所の政治、軍事をあわせての最高責任者は労働党中央政治局員のファム・フン氏だった。フン氏はインドシナ共産党の初期からの党員で北ベトナムの副首相まで務めた後、1967年から南ベトナムでの闘争の最高責任者、つまりCOSVNの最高指揮者となって、政軍の闘いを指揮してきた。ベトナム戦争後は統一ベトナムの首相にまでなった。

 

ズン参謀総長を迎えたのはそのフン政治局員、そして南領内での軍事責任者のチャン・バン・チャ将軍らだった。そしてズン参謀総長が指揮所に着いてから4日目の4月7日午後、さらに新たに到着した人物があった。ズン戦記が記していた。

 

「その日、この秘密指揮所に一台のモーターバイクが着いた。荷台から一人の長身の人物が降り立った。空色のシャツ、カーキ色のズボン、草色のヘルメット、黒い革の大きなリュックサックを背負っていた。そればレ・ドク・ト同志であることはすぐわかった。私たちは喜びのあまり、彼としっかりと抱きあった」

 

レ・ドク・ト氏といえば、ベトナム労働党のナンバー2,北ベトナム(ベトナム民主共和国)という国家の最高首脳部でもトップに近い人物だった。北ベトナムは共産主義政党が全権を握る国として最高の権限を握るのは共産党の書記長だった。その共産党は一時的に労働党と名称こそ変えていても、実態は一党独裁、マルクス・レーニン主義を信奉する政党だった。この時点での北ベトナムのトップはレ・ズアン氏だった。レ・ドク・ト氏はズアン氏と長く険しい共産主義闘争を続けてきた右腕だったのだ。

 

 しかもト氏は国際的にも知名度が高かった。アメリカ政府とベトナム停戦への交渉をパリで進めたのはト氏だった。キッシンジャー氏らを相手にして、明らかに北ベトナムに有利な協定を実現させたのだ。長身の体躯、端正な容貌のト氏の姿は全世界的にも広く知られていた。そんな人物が北ベトナムの首都ハノイから北軍が優勢だとはいえ、戦火のなかの南ベトナム領内に潜入し、しかも北部、中部の秘密ルートを経由して、サイゴンにも近い南部の秘密指揮所に入ったのだ。この事実は北ベトナムという国がまさに総力をあげてこの戦争の最終決着を目指すという決意を示していた。

 

 レ・ドク・ト氏を迎えたこの秘密識者では翌日の4月4日、合同会議が開かれた。歴史的な会議でもあった。ト氏を中心にファム・フン、ズン氏と、合計3人の労働党政治局員が顔をあわせた。北ベトナムという国家の最高権力機構である労働党政治局は当時合計7人ほどのメンバーだったから、その半数近くが南ベトナムの密林内でのこの会議に集まったことになる。

 この会議ではト氏がまず、ベトナム労働党のサイゴン総攻撃という重大決定を南ベトナムでの闘争の首脳たちに公式に伝達した。この作戦が「ホーチミン作戦」と名づけられたことも宣言された。その動きにともないこの指揮所に「サイゴン解放作戦司令部」が設置された。その司令官はズン参謀総長、政治委員はフン政治局員、副司令官にはチャン・バン・チャ、レ・ドック・アン両将軍が任命された。その結果、歴史的なホーチミン作戦としてのサイゴン総攻撃の指揮中枢が整ったわけである。あとは南ベトナム各地で攻勢に出ている人民軍部隊をサイゴン周辺に集め、大包囲網をつくりあげることが目標となった。

 

 この4月8日、サイゴンでは大統領官邸への反乱パイロットの攻撃があり、まもなく首都に全面外出禁止の命令が出されていた。(つづく)

 

 

トップ写真:Xuan Thuy & Le Duc Tho During Paris Peace Accords

出典:Consolidated News Pictures by getty images




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