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.国際  投稿日:2025/7/8

ベトナム戦争からの半世紀 その20 チュー大統領への非難


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・1975年3月、中部高原の放棄で南ベトナム社会は動揺し、チュー大統領への非難が噴出。

・軍や政界内でも大統領の独断撤退に反発が強まり、退陣要求が表面化。

・大統領は防衛継続誓うが、北ベトナム軍の猛攻で状況は悪化し政権崩壊の危機に。

 

 南べトナムの中部高原の放棄は当然ながら首都サイゴンの社会を根底から揺さぶった。首都の住民たちは遠隔地での戦闘の一進一退には慣れていたが、こんどは中部のコンツム、プレイク、ダルラク省と、3省の面積を合わせれば、南ベトナム、つまりベトナム共和国全体の6分の1に近い地域を失ってしまったのだ。

 

 時は1975年3月中旬、その3週間ほど前までは南ベトナム政府は全省を支配していたといえた。南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領はパリ和平協定後も革命政府を一政治勢力としては認めても、政府としては決して認めていなかった。革命勢力が支配していた地域は「共産主義勢力が不当に占拠している辺境地域」としか呼ばなかった。現実にそんな状況にもみえた。チュー大統領はその現状を踏まえ、その年、つまり1975年秋に予定された次期の大統領選挙に再出馬する意向を明確にしていた。そんな状況がわずか2,3週間の間にがらりと変わってしまったのだ。私の接触したサイゴン市民たちも

チュー大統領がこのまま共産側に屈服してしまうのではないか、という恐れを隠さなかった。

 

 サイゴンでは当然、チュー大統領への激しい非難や糾弾が起きた。私は政府や軍の関係者たちに接触して、反応を探索した。まず明らかになったのは中部高原からの一方的な撤退はチュー大統領の独断であり、軍内部にはその事前からかなり強い反対があったという実態だった。だから当然、南ベトナム政府軍の内部、しかも中枢部にもチュー大統領の反発が広がったようだった。

 チュー大統領もそんな不穏な気配に対処するような動きをとった。北部の主要都市ダナンの防衛に当たっていた精鋭部隊の空挺部隊一個旅団を緊急にサイゴン首都圏に移動させたのだ。その公式な理由は首都圏の防衛強化とされたが、実際には大統領に忠誠な空挺部隊を近くにおき、軍内部の不穏な動きを抑えるためだという解釈が広範だった。

 サイゴンでは3月20日、それまでは午前零時からの外出禁止令が午後10時からへと早められた。首都での午後10時からの外出禁止というのは1972年春の北ベトナム軍の大攻勢の最盛時以来だった。繁華街の夜の灯も少しずつ消えていった。

 

 私はサイゴン政界の指導者とされる人たちにも直接会って、見解を尋ねた。私のサイゴンでの取材活動もすでに3年ほどが過ぎていたので、取材先となる知己は増えていた。

 下院で野党指導者とされるチャン・バン・チュエン議員は正面からチュー大統領を非難した。チュエン議員はチュー政権と距離をおきながらも、北ベトナムの共産勢力を激しく非難する反共野党でもあった。

 「チュー大統領は共産側がこれほど強大な兵力で、これほど急速に進撃してくることを予測できなかったのだ。あわてての撤退が大敗走となることも予測できなかった。撤退は理論的な名分があっても、敵がこれほどの勢いでの追撃をしてくれば、敗走になってしまう」

 南ベトナムの軍部ではチュー大統領の先輩にあたるズオン・バン・ミン将軍に近い若手のホー・バン・ミン下院議員もチュー大統領を明確に非難した。

 「今回の事態はチュー大統領の指導者としての資質の欠陥を明らかにした。チュー氏がこのまま大統領の座にあれば、ベトナム共和国は共産勢力に滅ぼされることが明白になったといえる」

 チュー大統領に退陣を求める声がはっきりと表面に出てきたのだ。

 

 それまで北ベトナムの共産勢力にははっきりと敵対しながらもチュー大統領の体制には批判的だったチャン・フー・タン神父を代表とする「反腐敗人民運動」とか、同様にチュー体制からは距離をおく仏教徒のブー・バン・マオ上院議員を最高指導者とする「民族和解勢力」といった組織も連日、サイゴン市内で集会を開いて、チュー体制の打倒を叫ぶようになった。

 他方、チュー大統領にあくまで忠誠を示す与党のグエン・バン・ガイ上院議員(前地方開発大臣)はなお、チュー体制の擁護に熱弁をふるった。

 「大統領の決定はあくまで新しい概念に基づく合理的な防衛態勢づくりだ。共産側にしても中部高原すべてを今後支配するとなれば、巨大な負担となる。こんどはこちらからゲリラ部隊を送りこんで攻撃し、被害を与えられる」

 だがこの種のチュー大統領擁護の声はきわめて少数派になっていた。軍事情勢が明らかにチュー体制の敗退を明示するようになっていたのだ。

 

 チュー大統領はこうした非難に対して3月19日の夜、全国向けの演説をする方針を発表した。ラジオとテレビの両方での演説だとされた。チュー大統領が実際にサイゴン市内中心部に近い国営テレビ局に出かけて、事前の録画を収録したことがわかった。演説は全体で3分ほどとされた。その内容は複数の取材先を通じて私も知ることができた。演説の骨子は中部高原からの撤退の理由をまず説明し、北ベトナム軍の兵力の強大さを告げながらも、こんごは南ベトナム最北端のクアンチ省、そのすぐ南に隣接する古都フエを抱えたトアチエン省、高原の名勝の避暑地ダラトを擁するツエンドク省はいずれも死守すると誓っていた。

 

 しかしこの大統領演説はこの日の予定の午後7時になっても放映されなかった。1時間、2時間と時間が過ぎた。そしてこの日は演説中止だと発表された。その理由はちょうど大統領演説の放映予定時間が近づいたころ、最北端にクアンチ省に北べトナム軍の新たな大部隊が攻撃を開始し、省都のクアンチ市を制圧したという情報が入ったことだったという。つまり大統領が「死守」を誓う最北端の省都が敵に占拠されてしまったのだ。それでは演説自体を中止するしか選択の余地がないことになる。

 

 この大統領演説は丸24時間後の3月20日夕、ラジオだけで流された。ただし中部高原からの撤退の説明の後、トアチエン省とツエンドク省の防衛の意思を強調していた。前夜まで同じように死守を誓ったクアンチ省についてはチュー大統領は次のように述べていた。

 「3月19日に新たな北ベトナム軍大部隊がクアンチ省都への攻撃を開始した。南領内の北べトナム軍兵力はこれまで14個師団だったのが、この新たな動きで合計19師団となりつつある。北ベトナム領内にいた残留部隊のうち予備役も含めて6個師団のうち5師団が南下を始めたのだ」

 この言葉が事実ならば、北ベトナム、つまりベトナム民主共和国の全軍隊の9割以上が南ベトナム領内へ進撃し、南ベトナムという国家を打倒しようと全力をあげる形となったわけである。(つづく)

 

トップ写真:Bettmann by getty images




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