ベトナム戦争からの半世紀 その34 スアンロクでの大激戦

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」1005回
【まとめ】
・スアンロクの戦いは、サイゴンへの最終攻勢の重要拠点として激戦となった。
・南ベトナム軍は劣勢ながらも緒戦で勝利し、北ベトナム軍を一時撤退させた。
・しかし、北ベトナム軍は増援を得て再攻撃し、最終的にスアンロクを制圧した。
サイゴンへの総攻撃としてのホーチミン作戦を決めた北べトナム軍が首都圏への突入の第一歩として始めたのがロンカン省の省都スアンロクへの大規模攻撃だった。スアンロクはサイゴンから東に約60キロ、東京都心から成田空港までの直線距離に等しい。文字通りのサイゴン首都圏の中級都市だった。この地をめぐる激しい戦闘はベトナム戦争全体の歴史のなかでも特別の意味を持つ戦いとなった。
スアンロク市は人口10万ほどの市内中央に瀟洒なカトリック教会の立つとくに特徴のない街だった。だがこの状況下では戦略的な比重は大きかった。中部海岸から南、そして西へ、首都圏に向かう国道1号線と、中部高原から南下して、そのまま首都圏へと通じる国道20号線が交差するのがスアンロク地域だったのだ。この時点では北ベトナム軍の大部隊はこの二つの国道を進撃しており、首都サイゴンを目指すには、このスアンロクを突破しなければならなかった。
北ベトナム軍がスアンロクへの猛攻を始めたのは1975年4月9日だった。南べトナム空軍の反乱パイロットがサイゴンの大統領官邸に攻撃をかけた翌日だった。南軍の情報では北軍は1号と20号の両国道をそれぞれ師団単位の大部隊で白昼堂々、トラックや戦車を連ねて、進軍しているという。それまでの戦闘では考えられなかった大胆な動きだった。アメリカ軍や南ベトナム軍が制空権を握った情勢下では北軍は空からの攻撃を恐れ、移動では露出を避けるのが常だった。だがいまや米軍はおらず、南軍の空軍力も大幅に弱まってしまったため、北軍は空爆を恐れなくなったということだった。
スアンロクには北軍は2000発以上の砲撃を浴びせ、歩兵部隊が市内への突入を図った。砲撃には北軍の主力の130ミリ砲という射程30キロほどの巨砲も加わっていた。そんな北側の主力兵器が首都圏への戦闘に搭乗してきたことは南側にとっては衝撃だった。サイゴンにいた私にもスアンロクの戦況はすぐに判明した。
スアンロクの防衛の主力は南ベトナム軍の第18師団だった。この師団はもともとスアンロクに司令部をおいていた。また第18師団はこれまでの中部や北部での戦闘には一切、関与せず、無傷のままの参戦となった。攻撃側の北ベトナム軍は第4軍団所属の第6,第7,第341各師団と三個師団をも投入していた。ほぼ1万人という一個師団が3個も合わさっての総攻撃というのは、ものすごい規模となる。これに対して南軍は当初は一個師団と、3対1の劣勢だった。だが南軍第18師団はレ・ミン・ダオ司令官の下、驚くべき強固な抵抗をみせた。
第18師団は当初は北ベトナム軍の大部隊に市内の大半を奪われたが、すぐに必死の反撃で北軍を市外へと撃退した。その当初の市街戦で北軍は500人もの戦死者の遺体と10数台の破壊された戦車を残して撤退した。しかしその後もすぐ波状の攻撃を続けた。これに対して南ベトナム軍は増援を投入した。サイゴン北方に駐留していた第5師団の一部がレインジャー数個大隊ともにスアンロクへ送られた。その後、南側のトラの子ともされていた第1空挺旅団も大型ヘリで急遽、派遣された。空軍部隊も首都圏内の各基地に残存していた攻撃機、戦爆機を動員して、スアンロクに攻め込んでくる北軍部隊を空から攻撃した。
南側のこうした軍の動きの背後にはチュー大統領からの強硬な徹底抗戦の命令があった。なにしろ首都圏への北軍の突入の阻止なのである。そのうえにアメリカ側への再度の訴えという意図もあった。ちょうどその時期、米軍のウェイアンド陸軍参謀総長が現地での戦況を視察していたのだ。その視察の最後の時期に北ベトナム軍のスアンロクへの大攻勢が始まった。チュー大統領にとって、いやベトナム共和国という国家にとって、北ベトナム軍の攻勢に果敢に戦って撃退するという誇示が不可欠だった。徹底抗戦の実例を示せば、アメリカからの兵器や弾薬の支援増加も期待できるかもしれない、という狙いだったといえよう。
実際にスアンロクでの南ベトナム軍は兵力の規模の劣勢にもかかわらず、文字通りの決死の反撃戦を続けた。塹壕などでの防戦に留まらず、市内に突入してくる北軍の歩兵や戦車隊への突撃をも重ねた。南ベトナム軍としてはこの1975年春の大激戦でも最大かつ唯一の正面からの北軍との戦闘だった。しかも南軍はこのスアンロクの当初の大激戦では勝利をおさめたのだ。北ベトナム軍部隊は攻撃開始から4日目、損害が甚大となり、スアンロク包囲を解いて、周辺地区へと撤退したのだった。
この戦闘の模様を北ベトナム軍の南領内での最高指揮官バン・チエン・ズン参謀総長は以下のようにまとめていた。スアンロク作戦の失敗のごく率直な自認でもあった。ズン戦記からの引用である。
「わが軍はスアンロク市内に何度も突入し、何度も敵の反撃を撃退しなければならなかった。敵に打撃を与えたが、わが砲兵部隊は砲弾をさらに増さなければならなかった。わが軍の戦車や装甲車も一部は破壊され、また一部は補給のため出撃地点まで引き返すことを余儀なくされた。
第4軍団によるスアンロク攻略作戦は当初、情勢の複雑な展開を正しく見通していなかった。敵の抵抗の頑強さを的確に評価していなかった。敵がチュー体制の存亡を賭してスアンロクの戦闘にのぞんでくることを正しく評価できず、従来のような方法で戦闘の組織、指揮、実施を進めるのが不可能なことが後に判明した。攻撃方法を情勢にあわせて変えねばならなくなった」
敵の抵抗を過小評価するという失態だったと、きわめて素直に反省したわけだ。そしてスアンロク攻撃を停止し、部隊を後方へ引き上げたのだから、この時点では明らかに南ベトナム軍の勝利だった。南軍の司令部は当然ながらこの吉報に沸いた。前月のバンメトート市の失陥以来、敗退に敗退を重ねてきたこの戦いで初めて勝利を飾ったのだ。サイゴンの南軍司令部はこの結果を全世界に知らせようと、外国人記者たちをスアンロク市に連れていくという現地取材のアレンジまでをした。記者代表の10数人を実際にヘリに乗せ、スアンロク市内の戦闘跡の瓦礫の地域に運び、第18師団のダオ司令官とも会見させた。だがこの取材陣はわずか数時間後には撤退しなければならなかった。北軍の砲撃が再開されたからだという。
しかしサイゴン市内ではこのスアンロクの勝報で市民たちは喜びをみせた。北軍撤退の報の翌日の4月13日は日曜日とあって、中心街は大変な人出となった。家族連れまでが多く、戦況の好転にみなが安堵の表情をみせたのだった。そんな人たちの様子をみて、私自身ももしかすると、南ベトナムという国もなんとか生き延びるかもしれないとさえ感じたのだった。
しかし全体の戦況は変わらなかった。北ベトナム軍が新たな作戦に乗り出したのだ。ズン戦記によれば、北ベトナム人民軍はカンボジア国境近くのロクニンの秘密総指揮所から前線での最高司令官であるチャン・バン・チャ将軍をスアンロク周辺へと派遣し、「新たな攻撃」について検討させたという。その「新たな攻撃」とは、ひとまずスアンロクへの直接の攻撃をやめて、部隊を後方へ引き、スアンロク周辺の南軍基地や補給路を襲い、スアンロク自体の守備部隊を締めつけるという作戦だった。包囲・孤立作戦といえるだろう。
ほぼ同時にこの時点で北ベトナム軍の別の大部隊が中部海岸沿いにスアンロク方向へと南下してきた。北部のフエやダナンを攻略した人民軍第2軍団の第304,第324,第325の各師団と、合計3個師団の大兵力が海岸沿いに900キロほどもの進撃を続けてきた。そして4月19日にはスアンロクの東90キロほどの海岸の中級都市、ビントアン省都のファンティエット市を制圧していた。
その第2軍団の3個師団には中部高原から転進してきた第3師団が加わり合計4個師団となった。そしてその大兵力が一時はスアンロク攻略に失敗した他の3個師団と合流したのである。そして改めてスアンロクを攻撃することとなった。合計7個師団という圧倒的な優位を誇る人民軍の軍団だった。南側の守備隊の運命は明白だった。第18師団を主力とする守備軍は4月20日の夜にはスアンロクからの撤退を始めた。北軍の最初の攻撃以来、11日目の情勢反転だった。すぐに北ベトナムの大部隊がスアンロク市を埋め尽くした。南ベトナム軍の緒戦での勝利ははかなく逆転されたのだった。そしてサイゴン首都圏への東の関門が大きく破られたのだった。
(つづく)
写真)スアンロクからの避難民 1975年
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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