ベトナム戦争からの半世紀 その33 日本政府の対応は

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」1003回
【まとめ】
・日本政府は南ベトナムを「戦後復興」とみなしODAや文化交流で支援したが、情勢を誤認。
・1975年春、大使不在の中で中山特使が派遣され、チュー大統領は徹底抗戦を表明。
・直後に新大使が着任したものの、南ベトナムは崩壊寸前で日本外交の見通しの甘さが露呈。
南ベトナムでの戦争のこうした大激変を日本はどうみていたのか。ベトナム戦争への日本での関心はもともと高かったが、日本政府は南ベトナム、つまりベトナム共和国を政策面でも重視していた。フルの外交関係を保ち、サイゴン駐在の日本大使にも大物外交官を任命していた。私が赴任した当初は日本大使は東郷文彦氏という重鎮の外交官だった。東郷氏はその後、外務次官となり、アメリカ駐在大使ともなった。
日本政府が南ベトナムという国を重視したのは、やはり日本にとっての貴重な同盟国のアメリカが長年、防衛してきた相手国だという理由があっただろう。東西冷戦では日本も南ベトナムも同じ自由民主主義陣営だったというわけだ。
だが日本の世論となると、かなり異なってはいた。この連載の冒頭部分で述べたように、日本のメディアやいわゆる識者の間ではベトナム戦争をアメリカ帝国主義の侵略とみて、南ベトナム政府側への同情は少ないという傾向もあった。だが戦争を止めて、とにかく平和を、という日本独特の情緒的な反応も広範で、1973年1月にパリ和平協定が調印され、当面の停戦が合意されたときは日本では官民あげてその「平和」を歓迎した。
日本の外務省も明らかにこの平和は長く続くだろうという見通しに立っていた。その時点から南ベトナムへの支援を大幅に広げ始めた。日本外務省は「戦後の南ベトナム」という表現を政策用語として、官民合同の文化使節団までをサイゴンに送りこんだ。宮沢喜一元首相、ソニーの盛田昭夫、作家の三浦朱門といった有名人がサイゴンにきて、南ベトナム側の作家や俳優らと交流した。一方、日本政府は南ベトナムへの経済援助も「戦後復興」という概念を打ち出し、大幅に増額した。政府開発援助(ODA)だった。代表例はチョーライ病院の建設だった。サイゴン市内の中華系住民の多いチョロン地区に巨大な近代病院を日本の資金で建てるという計画だった。この病院は日本側の企業が主体となり、その建設は1975年春に戦争がふたたび激しくなった時期にも続いていた。
しかし日本政府のベトナムの「和平」とか「戦後」という大前提は結果としては間違っていたわけだ。もっとも戦争の大規模の再開は北ベトナムの首脳以外には当時の誰にも予測はできなかったともいえるだろう。いずれにしても日本政府は当然ながら1975年春の北ベトナム軍大攻勢による南ベトナムの危機には重大な関心を向けていた。情勢を読むことに力を注いでいた。
しかし南ベトナムが国家の危機に面した75年の3月から4月にかけての一ヵ月ほど、サイゴンには日本大使はいなかった。それまでの奈良靖彦大使がカナダへと栄転し、その後任がなかなかこなかったのだ。そんな空白を埋めるかのように外務省はサイゴンへ特使を送りこんできた。それまでフランス大使を5年も務めてきた中山賀博氏だった。日本の当時の外交官でも長老とされたベテランである。しかも中山特使は1967年に南ベトナム駐在大使を務め、チュー大統領ら現在の南首脳たちとも交流があったという。
南ベトナムという国家はこれからどうなるのか。チュー大統領はどこまで戦うのか。南ベトナムという国家に北ベトナム軍の大攻勢に耐える軍事能力があるのか。停戦交渉への道はあるのか。こうした疑問は日本政府にとっても重大な課題だった。外務省としては重鎮の中山大使に現地での情勢を直接に調査させ、なんとか確実な展望をつかみたい、という意図だった。
中山特使がサイゴンに着いたのは4月4日だった。北ベトナム側が南領内の秘密指揮所でサイゴン総攻撃を決めた日である。北軍部隊は中部海岸を大進撃していた。中山特使はそんな危機のなかでの南ベトナムでチュー大統領はじめ、政府や軍の首脳たちにつぎつぎと面会した。とくにチュー大統領とは旧知ということもあり、時間をかけて率直な会談をしたという。
同席した日本側の関係者が明かしたところでは、中山特使はこの会談ではきわめて直截にチュー大統領に対して、この危機にどう対処するかを問い、このままだと北軍の大攻勢は激しくなるばかりだと述べた。さらに南ベトナム側の軍の内部にはチュー大統領に対する反発が高まっていることも指摘して効果的な軍事反撃ができるか否かも疑問だとまで述べたという。要はチュー大統領に辞任する気はないのかという問い詰めでもあった。
チュー大統領はこうした中山特使の質問に直接には答えず、一時は激昂しかかったという。だが最終的にはこんごも絶対に戦うという徹底抗戦の意図を表明し、辞任などは考えていないと明言したようだった。
中山賀博特使は4月9日にサイゴン市内で日本人記者団と会見した。いかにも重鎮の外交官らしい風格の中山氏は慎重に言葉を選びながら語った。
「チュー大統領は北ベトナム側とのなまじの妥協はただ全面敗北につながると確信しているようです。南ベトナム側にはまだ効果的な防衛を続ける軍事力が残っている。だから辞任など絶対にせずに、最後まで戦いぬく決意だと大統領は明言しました。やはり死をも覚悟しているようにみえました」
私も中山氏のこの総括には説得力を感じた。チュー大統領の少なくとも現時点での決意は徹底抗戦なのだ、と信じられた。これからの情勢を予測するうえでの中山氏のこの報告は貴重だと実感した。だが現実にはそうはならなかった。
日本の外務省は中山特使がサイゴンを離れた直後の4月11日、南ベトナム駐在の新大使として人見宏氏を送りこんできた。特命全権大使である。前述のように一ヵ月以上も空席だった日本大使のポストがやっと埋まったのだ。だが南ベトナムという国家自体が存亡の危機に迫られていた。そんな国に、そんな異常事態の下で大使を新たに送りこむというのは異様な発令でもあった。
人見宏氏もベテランの外交官だった。中山特使からはだいぶ後輩だったが、外務省の儀典長やデンマーク駐在大使の経験を持っていた。泰然とした感じの人物だった。戦火の下にあり、崩壊も考えられる国への赴任には個人としても相当の覚悟を要したことだろう。人見大使は現実に日本の外交史でも例のない苦労、苦闘を強いられることとなった。このあたりも日本外務省の見通しの錯誤があったといえそうだ。
(つづく)
トップ写真:Nguyen Van Thieu In His Office
出典:Dick Swanson by getty images




























