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.国際  投稿日:2025/8/22

ベトナム戦争からの半世紀その29 柔道で知ったチュー大統領非難


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」998回

【まとめ】

・1975年4月6日、サイゴン郊外の軍医学校で柔道大会が開かれ、筆者は来賓として招かれた。

・大会後、軍医学校長ラン大佐が筆者に対し、チュー大統領と軍上層部への激しい不満と怒りを吐露した。

・軍内部は混乱した命令や腐敗に憤り、将兵の士気は低下しており、チュー政権の崩壊が迫っていることを示唆していた。

 

 国土の半分を失った南ベトナムの首都サイゴンで柔道大会が開かれた。私はその柔道の場で改めて南ベトナム軍内部の不満や不安の深刻さを知ることとなった。こんなことを書くと、いかにも奇妙であり、なにかクイズのようにも響くだろう。やや詳しい説明が必要である。

 

 1975年4月6日の日曜日、サイゴン郊外にある南ベトナム政府軍の軍医学校の立派な体育館で柔道の首都地区の昇段試合が開かれた。大規模な大会となり、若い男女数百人が集まった。こんな国家の危機に柔道大会もないだろうというのがふつうの感覚だろう。だが首都にはまだ戦火は及んでおらず、市民の不安や動揺は激しくでも街の治安や秩序は表面上、保たれていた。この柔道大会もかなり前の時期から決められていた。だから急に中止や延期をしなくてもよい、という判断で予定通りに開かれたわけだった。

 

 その場所が軍医学校となったのも、その軍医学校では柔道の練習が盛んだったからだった。私はこの大会に特別の来賓として招かれた。それなりの理由があったのだ。

ここで話は2年以上も以前に戻る。実は私は南ベトナムで柔道の稽古や指導にほぼ本格的にかかわることになってしまったのだ。全南ベトナム柔道チームの監督までを務めたという経緯があった。

私は学生時代、中学から大学までの10年間、柔道に必死に励んだ。高校では団体戦で神奈川県大会で連続優勝、関東大会で優勝、全国大会でも第三位となった。大学でも4年間、本格的に稽古を重ねた。その結果、傑出した選手にはなれなかったが、きちんと鍛錬の積んだ中堅選手の域には達した。その後、アメリカの大学に留学したが、当時は日本の柔道の国際水準は高く、アメリカの大学や一般の柔道クラブでも指導役を果たすことができた。全アメリカの選手権大会にも出て、中量級で第三位になったこともあった。段位は三段だった。

 

 その後、日本に戻り、新聞記者となって、柔道の稽古場とも縁が切れた。サイゴンに赴任した時点では、6,7年の空白があった。一方、南ベトナムでは柔道がきわめて盛んなことがわかった。だが当初は戦争の地で新聞記者として赴任して、柔道など夢にも考えなかった。しかしサイゴンに赴任して1年ほどが過ぎ、パリ和平協定が成立して、戦火も少なくなり、報道の仕事にもいくらかのゆとりができた時期に、同世代の知人にサイゴン近郊の柔道の町道場に案内された。彼に私が柔道を学んできたことをつい伝えた結果、当地の柔道もぜひみてほしいと誘われたのだった。

 

 その道場では50人ほどの青少年が稽古をしていた。懐かしい思いで見学していると、何人かが私にも参加するよう促した。練習は長年していないし、なにしろ暑い。冷房などもちろんない。辞退していると、さらに柔道着を持ってきて熱心に勧める。そのうち怖いのか、などともらす若者までが出てきた。そこまで言われて、断ることもないと思い、稽古に加わった。

黒帯を占めた青年と組み合った。自由稽古の乱取りである。組んですぐ、相手の未熟さがわかった。軽く動いて、技をかけると、相手はあっけなく倒れた。周囲が私のその動きに注目し始めた。その後、数人と練習したが、強いと思う相手がいなかった。要するに日本柔道の水準とはまったく異なるのだ。

 

 この道場の師範とも稽古をする破目となった。だがそう苦労せずに投げることができた。この師範はかつて南ベトナムのチャンピオンだったこともあると、後にわかった。こんな体験から「日本から柔道家がきた」というこちらが恥ずかしくなるような話が首都圏の柔道界で広まったと聞いた。そして実際にあちこちの柔道場に招かれることになった。

私自身、そもそも正式に師範と呼ばれるほどの実績はなかったが、南ベトナムの柔道があまりにも盛んであり、多彩の人々を知るには好機だと感じ、仕事の合間に対応した。率直に言って、いろいろな柔道場に出かけてみて、自分より完全に強いという相手にはまったくぶつからなかったことも、ベトナム柔道への貢献という意識を与えてくれた。

 

 その後の二年ほど、指導と稽古を続けた。サイゴン市内には日本への留学で柔道を学んだという仏教徒たちが開いた全国最大の柔道学校があって、昼夜あわせて合計2000人もの生徒が参加していた。私はそこでは成人の有段者の部に招かれ、練習と指導にあたった。週に一度ほどだった。

その他、富裕階層のフランス系のスポーツクラブでの柔道教室から国家警察の柔道場にまでも招かれた。サイゴン市内の高校や大学から地方の農業大学でも柔道をした。東南アジア柔道大会の開催前には全南ベトナム代表10人ほどの特訓も頼まれて一ヵ月ほど、対応した。そのなかにはチュー大統領のボディガードが2人ほどいて、大統領の動向さえもちらりと知ることができた。このように柔道を通じて南ベトナムの多様な人たちと接したことは報道という仕事にもきわめて有益だった。

 そんななかで南ベトナム政府軍の軍医養成学校から正規の体育授業での柔道指導を依頼された。週2回の早朝のクラスだった。100人ほどの規律正しそうな若者たちとの接触はこちらも楽しかった。英語での説明がよく通じる医学生たちだった。

 

説明が長くなったが私が軍医学校での柔道大会になぜ来賓で招かれたかの背景は以上だった。この軍医学校の校長はホアン・コ・ランという軍医大佐だった。当初の指導の依頼もラン校長から直接に受けており、その後の1年ほどにも何回か顔をあわせた。医師というよりも軍人という印象の強いラン大佐はいつもまじめな将校という感じだった。だが紳士でもあり、日本の戦争の歴史をも研究したなどと語り、教養をも実感させる人物だった。軍医学校の校長の前には歴戦の空挺師団付きの軍医として北部の最前線で数年の軍務を続けたこともあるという。

 

 4月6日の柔道大会で隣り合わせとなると、私は現役の軍人であるラン大佐に戦況などへの感想をも問うことになった。柔道大会が一段落したところで尋ねてみた。

 「最近の軍の内部の様子はどうですか」

 大佐からは打てば響くような答えが返ってきた。

 「軍の内部の状況を本当に知りたいですか。あなたが本来の職業がジャーナリストであることを私もよく知っています。ならばぜひ聞いてもらいたいことがあります。二人だけで話しましょう」

 ラン大佐をこう述べて、私を自分の校長室へと案内した。チュー大統領の肖像画が掲げられた立派なオフィスだった。そこでラン大佐が口にした言葉には驚かされた。

 「いまの政府軍の一般の将兵が軍首脳部にどれほどの怒りを燃やしているか。チューとその側近の将軍たちを全員、銃殺して、その写真を公開でもしない限り、信頼感や士気の回復は無理でしょう」

 軍医学校の校長としてのラン大佐はチュー大統領の肖像を眼前にして、そんな激しい言葉を放ったのだ。軍隊の組織に忠実で、最高司令官のチュー大統領にも敬意の念を払っているかにみえた重職の軍人が反逆に等しい怒りの言葉を爆発させたのだ。そしてさらに語り続けた。

 「中部高原からの撤退はまだ理解できました。しかし北部のフエとダナンからの撤退での混乱しきった判断や命令は許し難い。ダナンの空軍部隊は残留して、地上でも徹底して戦えという命令をまず受けました。それに従い、航空機の燃料を一時、抜いて、格納庫に入れる作業を進めたところで、『全機、飛行して撤退せよ』という逆転の命令がくる。フエなどでも『戦え』という直後に『撤退せよ』という命令の続出だった。そして上空をみると、そうした混乱の命令を出した司令官や参謀たちはすでにヘリなどでさっさと逃げ出しているのです。

一般将兵の間ではこんな上層部を排除しなければ、もはや国は守れないという憤りでいっぱいなのです。こうした軍の上層部の無能や腐敗はチューの責任です。チューが軍の上層部を側近や縁故で固め、軍内部に腐敗の風習をはびこらせたからです。いまの空軍内部にはもしチューが航空機で国外脱出を図れば撃ち落としてやる、と公言するパイロットたちも出ています」

現役でなお軍務の枢要にあるラン大佐がここまで激しく語るのに、私は衝撃を受けた。南ベトナム空軍のパイロットがチュー大統領を攻撃するなどという話は誇張だと感じはしたが、まさかその二日後に似たような事件が起きるとは想像もしなかった。

(つづく)    

 

トップ写真:Nguyen Van Thieu Inspecting a Foxhole

出典:Bettmann  by gettyimages

 




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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