ベトナム戦争からの半世紀 その21 北べトナムの歴史的決断

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・1975年3月、北ベトナム労働党政治局は人民軍主力部隊を南ベトナムに進軍させる決定を下し、南領内への大規模攻勢を開始。
・北ベトナム軍第2軍団は戦略的要地であるクアンチ・トアチエン両省を制圧し、南ベトナム軍の大半を捕虜とした。
・北ベトナムはアメリカの軍事再介入を警戒し、国家の総力を挙げて南ベトナム政権の早期軍事制圧に踏み切った。
北ベトナムの労働党政治局は1975年3月17日に歴史的な決断を下した。北ベトナム領内に残っていた人民軍正規軍部隊の主力をさらに南ベトナム領内へと進撃させる命令を発したのだった。
この時点では南ベトナムの中部高原では南軍の撤退が進み、人民軍の追撃を受けて、敗走となっていた。北ベトナム側では中部高原への攻撃当初では、1975年から76年までにかけて中部高原を制圧できればよい、と考えていた。だが南軍の混乱した撤退への追い撃ちで中部高原全体が北側の手中に入りそうになった。
その時点、つまり3月17日、北ベトナム首脳は中部高原の北にある南側の最北部に別個の大部隊による新たな攻撃を開始する命令を出したのだった。この経過は人民軍参謀総長のバン・チエン・ズン将軍の回顧録に詳述されている。
南北両ベトナムは北緯17度線で区切られていた。戦場となる南領内へは北ベトナム軍は長年、内陸部の山岳や密林地帯に切り拓いた秘密の通路を使って、移動していた。いわゆるホーチミン・ルートだった。だが1972年春の大攻勢のように、北軍が南北境界線を堂々と越えて、南下することもあった。この動きは本来、北側の「南領内でアメリカやその傀儡と戦うのは南独自の民族解放勢力だ」という主張が虚構であることを期せずして証していた。また1973年のパリ和平協定の成立以後は協定違反の軍事行動でもあった。
だが南ベトナム政府軍がかつてない敗走を喫した状況に対して、北ベトナムの政府・軍首脳部は北側の兵力の大部分を南での戦闘に投入する、しかも非武装地帯を堂々と渡って南下させる、という決断を下したのだった。
ズン参謀総長の戦記によれば、北ベトナムの最南端で南のクアンチ省やトアチエン省への進撃を命じられたのは人民軍の第304,324,325各師団だった。一個師団は数千人から1万人にも近い大兵力である。この3個師団を合わせて第2軍団と呼ばれていた。この歩兵、戦車、装甲車の大部隊が非武装地帯の南北境界線に沿うベンハイ川を渡って、続々と南ベトナム北部へ進撃してきたのだ。
南ベトナムにとっての北端のクアンチ、トアチエン両省は戦略的に超重要な地域である。とくにトアチエン省にはかつて王朝の所在地だった主要都市の省都フエがある。だから南軍もこの両省にはかねて精鋭の海兵師団と第1師団とを駐屯させ、防衛を固めていた。しかし北軍との兵力規模の差、さらには中部高原での友軍の大敗走による士気の低下により、まずクアンチ省の省都クアンチ市は北軍大部隊に一気に占拠されてしまった。
北軍の大部隊はさらに古都フエに対して3月22日に本格攻撃を開始した。防御にあたる海兵、第1両師団は善戦したが支えきれず、じわじわと退却していった。翌23日にはフエは明らかに北軍に占領された。翌23日、報道陣ではフエ市内に最後まで残っていたアメリカのUPI通信のポール・ボーグル記者が市内の状況を伝えてきた。ボーグル記者はベトナム駐在10年以上のベテラン記者だった。
「フエはゴーストタウンとなった。全市民は30万ほどだったが、いま残っているのは1万人ほどだろう。あちこちで略奪や放火が起きている。砲弾が市街地に落ちる音が絶えまなく聞こえてくる。守備の部隊も大半は逃走し、残った将兵たちの統制もすっかり乱れてしまったようだ」
北ベトナム軍の第2軍団は古都フエに対する勝利の進撃を飾った。市街の北、西、南の3方向から矢のように突入していった。市内に残っていた南軍の海兵師団と第1師団の将兵は陸路をすべて遮断され、唯一の退路を海上へ求めた。だがその途中でも多くが北軍の攻撃に倒れ、さらに多くが捕虜となっていったという。ズン参謀総長の戦記はフエ攻略の最終段階の様子を以下のように記していた。
「敵にはフエ市街のクアトアン港から海上へ逃げる道だけが残された。その退路は算を乱した敵の敗走路となり、戦車、装甲車、トラックの行列と週万もの将兵の列に埋めつくされた。将兵は徒歩で、武器を捨ててまで逃げようとした。
敵の艦船がクアトアン港の入り江で逃げてくる将兵を収容しようとしたが、わが軍の砲撃で入り江に近づけなくなった。フエ市内を制圧したわが軍は海岸に向けて進撃し、敵軍の大部分を捕らえた。数百台の戦車、数百門の大砲、数千台の各種車両をも捕獲した」
この時点までで明白となったのは北ベトナム最高指導部が国家の総力を投じてでも、南ベトナムという存在を一気に軍事粉砕しようとした決意だった。この時点ではまだ正確にいつまでにベトナム共和国という国家や社会を軍事制圧するという明確なスケジュールこそ決めていなかったが、できるだけ早く、という基本戦略は明確だった。この戦略の決定はベトナム戦争の長い歴史でも特筆されるべき重みがあった。
ベトナム労働党首脳がここまで大胆な戦略を決定するプロセスでは、万が一にもアメリカがまた軍事介入してくるか否か、という読みが最も深刻な課題だった。アメリカの出方は1975年に入ってすぐの1月の北べトナム軍によるサイゴン北方のフォクロン省の制圧、さらに3月上旬の中部高原バンメトート攻略でも、北側は心配を抱きながらみつめていた。この種の軍事行動は厳密にはアメリカも加わったパリ和平協定の違反だったからだ。この協定はあくまで停戦と総選挙による和平を決めていたのだ。
だから和平協定を成立させた当時のアメリカのリチャード・ニクソン大統領は万が一、同協定の重大違反があったときはアメリカがまた軍事介入して、その違反行動を止めるという密約を南ベトナム側に与えていた。北ベトナム側はその事実を察知し、最後の最後までアメリカの軍事再介入を恐れたのだった。だがその密約の当事者のニクソン大統領はウォーターゲート事件というスキャンダルによって、すでに辞任に追いこまれていた。アメリカ政治のそんな意外な展開も北ベトナムには幸運をもたらしたことになる。
(つづく)
トップ写真)最初のロケット攻撃がサイゴンを襲う様子 1975年4月21日 サイゴン
出典)Photo by Jacques Pavlovsky/Sygma/CORBIS/Sygma via Getty Images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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