[岩田太郎]【安倍首相、米議会演説の「二枚舌訳」は戦後日本の二重性の象徴 2】〜戦後は終わらない〜
岩田太郎(在米ジャーナリスト)
「岩田太郎のアメリカどんつき通信」
戦後日本の二重性は、1931年9月の満州事変以降の戦争に対する表現をどのように国内向けと対外向けで使い分けるかに象徴的に表れている。昭和天皇は40年前、1975年10月2日の訪米時にホワイトハウスの晩餐会で、「私が深く悲しみとするあの戦争」という表現をお使いになった。これは外務省によって、the war which I deeply deploreと英訳されたが、4月19日放映のNHK『日本人と象徴天皇』第2夜で、当時の藤井宏昭外務省北米第一課長が、「戦争をある意味で本当に終結させるため、どう表現するかが一番大事だった」「前の戦争は天皇の名で宣戦布告されており、(あの表現は)その天皇でなければならないことを成し遂げた」と証言している。
その訳語であるdeploreは、確かに「嘆き悲しむ」という意味があるが、「最大限の非難」や「強い不賛成の意」という用法もある。よく外交声明で用いられる。昭和天皇の発言の英訳は、文脈的には「悲しむ」であることが明白だが、「非難」の意が一瞬想起されるという極めて巧妙な仕組みとなっている。英語話者に与える心理効果が計算され尽しており、「操作的名訳」といえよう。
昭和天皇は帰国後の記者会見でこの表現について、「自身の戦争責任を認めたということか」という質問を受け、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と回答されている。結局、藤井氏の主張に反し、天皇のお言葉の非常に強い訳をもってしても真の日米和解はなかった。
それから40年を経て迎えた敗戦70周年の今年4月29日、安倍首相は米議会で演説し、先のバンドン会議演説で使用した「深い反省」と全く同じdeep remorseを「痛切に反省する」とより強く和訳したことに加え、「深い悔悟」と訳されたdeep repentanceを表明した。もとの用法であるキリスト教の宗教的意味が重ねられており、罪びとが過去の自分を全否定して人生の方向性を変え、唯一神のヤハウェを主と崇める生活に大転換し、新しく生まれ変わるというモチーフだ。
確かに首相は謝罪しなかったが、戦前の日本のやり方を全面的に否定し、神に等しい米国のやり方への「回心」を示唆する、謝罪以上に強烈な表現を使った。安倍首相は今年、靖国神社に参拝しないというが、当然だろう。こんな表現を、日本の独立と存続のため戦死した兵士や、米軍の攻撃により亡くなった民間の戦没者は、いかなる想いで聞くだろうか。彼らの死は、犬死だと言うのに等しい。
こうした国内外で訳語を使い分ける二枚舌は、国外においても国内においても、本当の意味の癒やしや過去への区切りを阻み、事態をより悪化させるだけだ。首相の言葉がより矛盾を深化させることは、数か月のうちに明らかになる。
また安倍氏は、米議会演説で米国が実力主義であると持ち上げたが、実際は経済格差が拡大し、出身階層がすべてで、演説の内容に反して農民大工の息子は大統領になれない。クリントン家・ブッシュ家・ケネディ家の「世襲政治」や、ファーガソンとボルティモアの暴動はその証左だ。
一方で米国の影響力は衰退の一途を辿り、それは米国の最も親密な同盟国が中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)になびいたことに表徴されている。米国は人心掌握に失敗を続け、自己浄化や矛盾解決ができない「項羽化」が進み、カチカチ山のタヌキの沈みゆくドロ舟になりつつある。
そんな米国に範を取る日本は、早晩行き詰る。敗戦70周年の今年こそ、戦前の過ちや戦後日本の歩みを振り返り、国の将来像と戦略を描く必要がある。それは戦前・戦後の日本のようではなく、ましてや現在の米国や中国のようでもない姿だ。戦後日本の二重性を脱するには、まず米国への「回心」の過ちに気付かなければならない。
(この記事は、【安倍首相、米議会演説の「二枚舌訳」は戦後日本の二重性の象徴 1】~その始まりとは~ の続きです。全2回)