[為末大学]【無知は独善、そして人はそれに気付かない】~自分の正しさを疑う事の大切さ〜
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
私の好きな言葉で”無知は独善”というものがある。無知とはどういうことか。物事を知らないという意味もあるけれども、私は自らを知らないという意味だととらえている。人間はいつも何かを思い込んでいる。私もあなたもおそらくあの頭のいい人も、今も何かを思い込んでいる。そして人は自分が思い込んでいると気づいた時には、もう思い込んではいない。つまり私たちはいつも何かを思い込んでいて、そして思い込んでいることに気づいていない。
独善という状態は自分の正しさを疑わず、かつ違う視点から考えられないことだと思う。人生では若い時には正しいと信じて疑わなかったことが、ある経験を経てそうとは限らないと気づいたり、明らかに正義だと思っていたものが現場に行ってみるとそうではなかったことと気づくことがある。自らの偏見に気づいた時、自分の正しさは一つの見方でしかなかったということに気づく。何度かこのプロセスを経て、人は自分が今言っている正しさは、将来も言い切れるとは限らないと知るようになる。正しさや善というものは、価値観を固定しないと存在できない。自分だけの一つの価値観は普遍の正しさだと信じることを私たちは”独善”と呼ぶ。
私の経験上自らが独善の状態にいることを私自身は認識していなかった。むしろどうしてこんな当たり前の正しいことをみんなは気づかないのかと憤っていた。独善の状態はなかなかに心地よい。何より自分自身は正しいのかどうかと疑う視点がないから迷いがない。
独善の状態で突っ走ることも重要な時期もあると思う。アスリートであれば何かを一心に信じることは大事だし、スタートアップの企業などでもいちいち自分を疑うわけにもいかないだろう。そういう時に正しいと信じ切って突っ走ることは大事だろうなと思う。ただし、独善であると自分が知っている状態と知らない状態は大きく違う。
無知は独善だと私は思う。そして独善状態の時、人は自分が独善であるなんて考えもしない。