【正義を疑うことの重要性】~無知は独善~
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
中学生の時、友達数人でいて、ある不良に女の子が絡まれている時があった。やめとけ助けるとこちらも絡まれるぞと言っているのに、友達の一人が彼らに向かってやめろと言ってつっかかっていった。
それで近づいてみると実はその女の子も絡まれているのではなくてただじゃれてただけだというのがわかって、今度は逆に不良たちが僕らに向かってきて、みんなで必死に逃げたことがある。
そのあと帰り道であいつは本当に迷惑な奴だとみんなで話して、しばらく一緒に遊ぶのをやめようかという話も出た。でも、ふと一人になった時考えたのは、本当に彼女が絡まれていたんだとしたら一体彼は悪いことをしたんだろうかと考え込んだ。果たして彼女が絡まれているのかいないのか、本当の事を担保するのは誰なのだろうか。現実を完全に知っているのは誰なんだろうか。
完全に正しい国家という存在があり、そこから出る情報は全く正しくてそれに従っていれば全体が最適化されるというのが全体主義のアイデアだと思う。一方でそうではなく誰かだけの情報では正しいかどうかわからないから、様々な情報意見の中で最もよいものを探そうというのが、民主主義的な発想だろうと思う。みんなが”A”が正しいと言っていることを信じきるなら、誰がその”A”を監視するのか。
日本では虐待が起きてもあまり他の家だと介入しないという。確実に虐待をしているというのならまだしも、疑わしいぐらいでは動かないらしい。確かに間違えていた時のご近所関係を考えると尻込みするのもわかる。でももし本当に虐待をしていたとしたら、どうなんだろうか。全く逆らえない状況の人でも、抵抗しなかったという自己責任が残るのか。
自分たちの利益を優先することと、自分のところだけよければいいという利己主義の狭間。公式の発表に従うことと、一箇所から出た情報を鵜呑みにしていいのかという狭間。みんなで統一した行動をしようということと、全体主義で染まることの狭間。みんなに迷惑をかける行動をすることと、そういう人間が時々起こすポジティブな面の狭間。
無知は独善。