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経済  投稿日:2017/1/7

『日本解凍法案大綱』5章 譲渡承認請求 その2

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牛島信(弁護士)

ふと、高野は川野夫妻に子どもがいなかったことを思い出した。

川野純代が当然のように持参したハンコを押し終わったところで、高野は、

「おばちゃん、墨田鉄工所の株を買い取るには会社の承認がいるんだそうです。弁護士に聞いたことですから、間違いありません」

「え?じゃあの株は売れないの?誰にも買ってもらえないかもしれないの?」

川野純代が小さな悲鳴のような声をあげた。

「いえ、そんなことはありません。株ですから立派に売れます。大丈夫です。

弁護士が言うには、会社には譲渡を承認するかどうかを決める権利があって、もしも譲渡先、つまりこの私が新しい株主になることが気に入らなけければ、私じゃなくて、こちらに買ってもらうようにとおばちゃんに指示ができるんだそうです。でも、承認しないときには必ずどこか売り先を決めなくってはいけないので、おばちゃんの株は必ず売れるんだそうです。

ですから、私でなくっても会社か会社の指定した第三者が必ず買ってくれます」

川野純代は高野の説明に少し安心したようだった。

「いやだ、なにがなんだかわからないじゃないの。

そんなことより、ね、敬夫さん、あなたが引き受けました、買うって言ってちょうだいね。なにもかもお任せしますから」

「ええ、私もそのつもりです。おばちゃんには親子して本当にお世話になりましたから」

「そんなつもりで言ってるのじゃないのよ」

「わかってます、わかってます。

私も弁護士に任せています。

その弁護士が言うには、墨田鉄工所は十中八九、私がおばちゃんの株を買って、新しい買主になることを承諾してくれないだろうって言うんですよ。なんですか、こういう同族会社の株の売買というのは難しい手順が法律にあるようで。ですから、おばちゃんと私との売買は実現しないと弁護士が言うんです」

「え、じゃあやっぱり」

また純代の声がすこしくぐもった調子になっていた。

「安心してください。誰かがかならず買うんです。株ですからね。

株というものは、第三者に売れることが当然なんだと私の弁護士が言ってました。手続きが込み入っているだけです。でも、弁護士がぜんぶやってくれるんです。私たちは横から見ていればいい」

「でも、あなたが買ってくれるわけじゃないのね。

それに、お時間がかかるのかしら」

川野は手元の膨らんだハンドバッグを胸に引き寄せた。高野はその動きにチラッと目をやると、微笑みながら。

「大丈夫、おばちゃん。

だから今日、お金をお渡ししました。それは最終的に誰が買うことになっても、もう返していただかなくて結構なお金です」

純代はハンドバッグを引き寄せていた腕の力を緩めた。高野はそれには気づかなかったふりをして、話を続けた。

「いいえ、私はすこしも構いません。私としては誰が買い手になっても構わないのです」

川野純代は少し驚いていた。どうやら高野がなにを言い出すのか警戒している風だった。

「とにかく、この500万円を受け取っていただいて、あとは法的なことですから、すべて弁護士に頼みましょう。私もそうするつもりです。私の古くからの友人である大木忠っていう名前の弁護士がやってくれます。信頼できる男です」

川野純代の表情がまた曇った。自分がなにかしら厄介なことに巻き込まれるらしいと感じたのだ。

高野は言葉を足した。

「もちろん弁護士費用は500万円とは関係ありません。

だいじょうぶ。弁護士の金はいっさい私が負担します。おばちゃんにご迷惑はかけません」

「でも、私、なにがなんだか。こんなおばあちゃんですし、難しいことはなにもわからないの。

敬夫さん、私、別にこの株を売らなくっちゃお金に困るとかいうんじゃないのよ。

たまたま主人が遺してくれた資産を整理していたら、いえね、あの人、お金を稼ぐこと以外に趣味がないっていうか、仕事だけが人生っていう人だったでしょ。だから、未だにいったい何を遺してくれたのかも、私、よくわからないでいるの。よく自分の財産がどこくらいあるか分かっているうちは大した金持ちじゃないっていうけど、本当ね。私には、なにがなんだかわかんないの。会社は義理の甥のものになってしまったし。

とにかくこの株が出てきたから、ああこんなのも手元にあったのかっていうだけ。

でも、持っていても仕方ないからどなたかにお譲りできれば、っていうこと、それだけなのよ」

高野は、目の前に座っているどぎつい化粧をした老女の言葉がすべてウソだと知っていた。彼女は金に困っているのだ。それも500万の金がすぐに必要なほどに。

借金だった。それに間違いない。高野のこれまでの人生経験はそう教えてくれる。

人は借金の取り立てにでも遭わなければ、無理な金策に走ったりはしない。売るものがある人間はまだいい。なにもなければ詐欺でも強盗でもすることになる。

だが、高野はそんなことなどおくびにも出さない。墨田のおばちゃんは、高野の母親が子どもに食べさせるものにも事欠き、腹を空かせて泣いている我が子のために身を売ろうにもそれすらもできないほどに体が弱くて困り果てていたときに、何回も親子を助けてくれた人なのだ。もし墨田のおばちゃんがいなかったら、高野の母親は10歳だった高野を道連れに無理心中するほかなかっただろう。もしそうなっていれば、高野はいまこうしてこの世にいることはなかったのだ。

そうしたことがあればこそ、母親が墨田のおばちゃんを助けてやっくれと頼んでいることを、高野はよくわかっていた。10歳の子どもだったのに、どうして母親が男を相手にした仕事に就いているとわかったのか。それも、飲み屋などという水商売ではなく、もっと直截な不特定の男相手の商売だったとまで。

あのころ、母親は病気がちだった。たいていは床に伏していて、ときどき念入りに化粧をすると出かけて行く。何時間かすると戻ってきて、帰り道に買ってきた高野の大好物の魚肉ソーセージで夕食を作ってくれた。鼻歌を歌いながら刻んだキャベツといっしょにフライパンをかき混ぜている母親の姿が、子どもながらとてもうれしくてならなかった。いい匂いがした。やっと空腹が満たされるときがやってきたという喜びもあったが、やはり母親が傍にいて、楽しそうに鼻歌まで歌っているのが子ども心に安心を誘うのだった。だから、調理をしている間も割烹着を着ている母親のお尻にすがりついて紐の端をつかんでいた。

高野の子ども時代というのはそんな時の連続だったのだ。

母親は、ひどく体の具合が悪いのか、布団から立ち上がることもやっということもあった。そんなときには、さして化粧もしないで、ふだんの格好のまますっと出かけていくのだ。

そうやって出かけたときには、1時間足らずで戻ってきた。ほんの少しの外出なのにひどく疲れてしまっていて、高野にご飯を用意してやるだけでやっとといった様子だった。

料理は簡単な目玉焼きのことが多かった。小さなちゃぶ台の上に細く切ったキャベツと目玉焼き、それにご飯をよそった茶碗を載せると、母親はまたちゃぶ台のすぐとなりに敷かれた布団に横になっていた。高野が小さな脚を二つに折って座り、「いただきます」と箸を両の手にはさんで声を励ますと、大きな溜息が聞こえてくる。振り返って母親を見ると、母親は布団のなかでなにものかに両手を合わせて涙をながしていた。

それが母親の墨田のおばちゃんへの感謝の祈りだったのだと分かったのは、高野が子どもを持つようになってからだったような気がする。

高野は、目の前の墨田のおばちゃんに、気のいい紳士然とした晴れ晴れとした顔で言った。

「大丈夫です。会社とのやり取りも弁護士に頼むつもりです。おばちゃんは安心して弁護士に任せていただけばいいんです」

「でも、会社とのお話がうまくいくとは限りませんでしょう?」

川野純代は、後になってからお金を返せと言われることを怖れているようだった。無理もない。手に入れれば右から左に借金の返済にあっという間に消えてしまうことが決まっている金なのだ。返せと言われたときには、もう手元には影も形もありはしない。

高野の話は、川野純代にはなんの話だかわからない。どうやら金は受け取ってしまえばもう返さないでよいらしいということだけは理解したようだった。そのほかのことには関心がないのだ。純代の顔に微笑が浮かんだ。

「容子さんも幸せね、いい息子さんを持って。羨ましいわ」

高野はその瞬間を逃さなかった。

「おばちゃん、ありがとうございます。ぜひ母親にそう言ってやってください。

でも、私が今こうしてあるのもおばちゃんのお蔭なんです。母からもいつもそういわれていました。

ほんの少しでもご恩返しできて、私は嬉しいんです」

「なんだかおんぶに抱っこみたいで申し訳ないみたい。お金も全額いただいてしまって。

私、すぐに使っちゃっても知りませんからね。

でも私のほうは株をそちら様に差し上げることができないんですの?会社だとか第三者だとか。私にはさっぱりわかりません。株券は手元でしっかりと保管しておきますから、入用だったらいつでもいってくださいね。あなたが買ってくれるのが私には一番いいの。

もうしわけないけれど、後になってお金をお返しすることも私にはともてできませんしねえ。だって500万でしょう。ねえ、どれだけもつか。そう、きっとすぐに使ってしまっていますよ」

言葉のはしばしに、昔は豊かに暮らしていた片鱗が垣間見えた。きっと彼女はもうとっくに期限がきてしましっている、返しようのないほどの額の借金に苦しんでいるのだ。いくつもの義理のある先からなかば騙すようにして借りてしまっていて、もう誰にも会わせる顔などありはしないのだろう。高野はそう思った。高野の母親のところに無心に来たことがなによりの証拠だった。

だが、高野には高野なりの考えがあった。

「とにかく、私は母親に言われて、おばちゃんの株を買うことにさせていただきました。

おばちゃんには一刻も早くお金を差し上げないと。とにかくお金はお持ち帰りください。

こんどは弁護士にも同席してもらって進めてゆきましょう」

(まるで映画の一場面だな。

88歳の、時代からすっかり取り残されてしまったような老女、それでも命のある間は生きることを強制されている女性と、たくさんの金を持っている事実を背景にこれからの人生にあふれるような自信とたっぷりの余裕を持っている68歳の男が、都心にある超一流ホテルのコーヒーショップで向かい合って座っている。男が無造作に500万円の札束を渡す。

映画なら、どんな経緯が2人の間にあってということになるのか。まさか何十年も前の色恋沙汰の清算ではあるまいが。たぶん、昔の少年の胸に宿ったほのかに甘くて淡い成熟した女性への憧れのような恋物語の清算てとこか。男が18、女が38歳とか。でも少年だった側がどうして金を出すのかな。いったいなにを清算するというのか)

高野は独り、心のなかで成り行きを面白がっていた。

(5章その3に続く。最初から読みたい方はこちら

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この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ1975年:東京大学法学部卒業1977~1979年:検事(東京地方検察庁他)1979~1985年:弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事。)1985年~:牛島法律事務所開設2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更(現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士51名(内3名が外国弁護士)<専門分野>企業合併・買収、一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。

牛島総合法律事務所「少数株主対策チーム」 URL: http://unlistedstock.jp/

 

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牛島信

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