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.社会  投稿日:2025/12/9

石原慎太郎と三島由紀夫:師走の情動



牛島信(弁護士)

 

【まとめ】

・年末に差し掛かり、回り切ることのない二回り目の人生に想いをはせる。

・ヘミングウェイやフィッツジェラルド、三島由紀夫と石原慎太郎の関係を重ね合わせ、憧憬や死への意識について語った。

・三島由紀夫の死や石原慎太郎との思い出を振り返り、複雑な回想を抱く。

 

『年賀状は小さな文学作品』とタイトルを付けて、30年分の年賀状についての小話集を幻冬舎から出版していただいた。4月のことであった。

もう12月である。来年の年賀状を書かなければならない時が来た。

だが、去年「75歳で還暦。二回り目の人生」と書いているのが引っかかる。さしたる思いを込めたわけでもないのだが、「二回り目」というのが、なんとなく重苦しさを漂わせるのである。

砂時計。半分の砂が落ちてしまった砂時計である。ウィスキーの広告ではないが、半分を「未だ」ととるか「もう」ととるかであろう。しかし、二回り目はどう考えても回り切ることはない、というのが客観的な事実である。

そうか、実はそんなところまで私は来てしまっていたのかと、今さらながらの驚きを感じさせられる。

もちろん、毎日、パリにいる25歳の文学青年と話している。彼の日常について聞けば、なるほどそうかい、で、と会話は弾む。だが、彼がどうしてスコット・フィッツジェラルドについてあんなに意地悪なことを言うのか不思議でならない。3歳年上の、既に赫々たる成功を収めていた先輩作家への、若いころに感じた憧憬とないまぜになった嫉妬なのか。

そう、若いころと私は書いた。しかし、『移動祝祭日』では若い彼と年取った彼とが混在しているのである。私が朝に話し、夜に議論する青年アーネスト・ヘミングウェイは、実のところ60歳前後、自死の数年前の彼なのである。

末期の目から見れば全ては美しいと語ったのは、芥川龍之介であった。32歳の末期。

 

ヘミングウェイとフィッツジェラルドのことを考えるとき、私はいつも石原さんのことを思いだす。石原さんがヘミングウェイ、そしてフィッツジェラルドは三島由紀夫である。石原さんと三島由紀夫は8年違いである。石原さんの文壇への登場時、三島由紀夫は喝采を贈った。しかし、腹を切って死んだ三島由紀夫に対する石原さんの目は恐ろしいほど冷たい。三島由紀夫の最後の作品への酷評も、滑稽なピエロに対するものである。中身のなさに涙が出た、というのは、同情なのだろうか。

しかし、そうした同情ほど作家三島由紀夫を傷つけるものはないだろう。

 

先日、或る勉強会で79歳の主催者が「今日は何の日か皆さんご存知ですか?」と口火を切った。11月25日のことである。

私は三島由紀が腹を切って死んだのが11月25日だとは覚えていた。しかし、咄嗟のことで、即答はできなかった。主催者に三島由紀夫の死んだ日と言われて、そうだ、そうだったよ、と思い返した。

三島由紀夫のことを思うたびに、私は軽い哀れさと滑稽の念を禁じ得ない。石原さんのせいである。

しかし、咄嗟の事で、と私は書いた。主催者は、三島由紀夫の「私はこれからの日本に対して、たいして希望をつなぐことができない。このままいったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなってその代わりに『無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済的大国』になってしまうのかもしれない。それでもいいと思っている人たちと、私は口を利く気にもなれなくなってきているのである」とある部分を朗読して出席者に聞かせた。


世の中の誰も、彼のあの劇的な11月25日の死を予想もしなかった時点、死の4か月半前、7月7日の産経新聞に「テーマ随想 私の中の25年 果し得ていない約束」と題してのエッセイである。

聴きながら、私は「作品をいくら積み重ねてみても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。」という別の部分を思い出していた。同じエッセイの前半の一節である。

しかし、石原さんは三島由紀夫の肉体をフェイクと呼んで憚らなかった。実際、そのとおりであった。三島由紀夫が、石原さんが300万票をとってトップ当選した参議院の全国区に、同じ時に出馬しようとしていたというエピソードを石原さんは書いている。佐藤元首相の夫人である寛子さんの言として、

「とにかく亡くなる前にお母さんに、つまらないつまらないこれなら死んだ方がましだってよくいっていたそうよ。どうしてそんなにつまらないのって質したら、ノーベル賞は川端さんに言っちゃうし、石原は政治家になっちゃうしって子供みたいに駄々をこねていたそうですよ。」

と回顧している。

そのすぐ後の部分で、石原さんは「どうやら私は三島氏が欲しがっていた玩具を奪ってしまったことになるようだ。」と記している。(『三島由紀夫の日蝕』新潮社102頁)

玩具を奪うという表現は、『太陽の季節』の一節を思わせる。

 

私はいまさらどうしてこんなことを書くのか。

それは、私自身の石原さんとの思い出にかかわる。

石原さんと会った最初の日、石原さんは私の事務所を見たいと言われた。そして私は石原さんと以下の問答をした。

「事務所の部屋で、石原さんは、『三島さんは実に頭のいい人だったな』と私に向かってつぶやいた。しみじみとした調子、様子だった。その時、私は、『もう石原さんはどうやっても三島さんにかないませんよね』と言った。余計なことを口にした。」

「なぜだ?」

石原さんはほんの少しむきになって質した。

「だって、三島由紀夫は45歳で腹を切って死んじゃったでしょう。石原さんは66歳まで生き延びてしまった。もうどうにもならないじゃないですか。」

そう答えた私に、石原さんは、

「うるさい。死にたくなったら俺は頭から石油をかぶって死ぬよ。」

と返した。

私は、石原さんの三島由紀夫に対する複雑な思いを想像していた。かたや東大法学部を出て大蔵官僚になってみせ、あげくに作家になった男、石原さんは一橋大学に入って人気作家に躍り出たうえに政治家にもなって、そして辞めてしまった男。」
(弊著『我が師 石原慎太郎』幻冬舎14-15頁)

確かに石原さんは「ほんの少しむきになって質した」のである。

石原慎太郎さんが亡くなって、もう直ぐまる4年になってしまう。早いものである。



トップ写真)作家で「楯の会」創設者の三島由紀夫(1968年 東京)

出典)Bernard Krisher/Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


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牛島信

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