【日本解凍法案大綱】23章 高野、倒れる
牛島信(弁護士)
高野は毎月血液検査をしている。胆石を腹腔鏡手術で取り去ったのも血液検査のおかげだった。肝臓の値がびっくりするほど高かったので検査を勧められたのだ。といっても、胃も大腸も血液からはわからない。
他にも血液からはわからない部位がいくつもありますが、とにかく今回は胃と大腸を、とかかりつけの女医、大船渡和美に言われたのが10月だった。大船渡はいつも微笑を絶やさず、四六時中患者のことを気にかけてくれている。40歳を過ぎたくらいで、忙しいなかにも自分の生活、たとえばパンプキン・スカートといった流行の服装を楽しんでいる。医者として女性として人生を謳歌しており、それゆえに魅力にあふれている。患者の立場からは頼もしいかぎりだった。そんな女性だから高野のような男は定期的に顔を見ずに行かないではいられない。かかりつけの医者としては打ってつけだった。検査は12月に予定が入った。
検査前、高野は前の年に高校時代の友人が肺がんで亡くなったことを思い出していた。最近ではゴルフ仲間にも膵臓がんが見つかって1年半で亡くなったのがいた。他にも仕事の付き合いで亡くなった知らせを聞く機会が増えていた。癌が多かった。
(年齢か。俺の番か、こいつは堪らんでは済むまいて)
大腸の検診はなんどもしていたから、慣れていた。部屋をとってもらい、朝から2リットルもの下剤を飲んで、水のような便になるのを待つ。看護師が確認してOKが出れば、検査室へ行く。もう麻酔が始まっているから、点滴用の移動台を自分で持ち運びながら行くことになる。この台に繋がれるたびに、囚われ人の心境になる。
翌日、大船渡医師から電話がかかってきた。
「手術をします。それも一日も早く。心配しないで大丈夫です」
そうだったのか、としか思わない。大腸ではなく胃だという。
(胃癌か。思いもかけなかったな)
妻の英子に電話し、入院の手はずの話をした。
それから、大きな息を吸って、紫乃の名をスマホで検索した。
出ない。まさか留守電というわけにも行かず、といって電話を返されても出られるとはかぎらないから、また電話しますと言って切った。
すぐに電話が返ってきた。
「ごめんなさい。あなたが電話してくることって珍しいから何かあったのかと。怖くてすぐに取れなかったの。だって、大腸の検査をするっておっしゃっていたでしょう。気になって気になって」
「ありがとう。
それだ。でも大腸ではなくて胃だった。
切る。
今の時代、胃癌は大問題ではないようだから、ま、なんとかなるさ」
「直ぐに?手術?どうして?
でも、そうね。そうよね、治るに決まっているわよね」
涙声になって、後が続かない。
高野はすこしずつ元気になっていった。
もうすぐ半年というころ、突然また入院すると言い出して、3日後に亡くなった。
英子が紫乃に知らせてくれた。
「亡くなってから高野のスマホをみたら、あなたと一杯話していたのがわかりました。だから、きっと高野はあなたに知らせてほしいだろうって思いました。それで、この番号に電話しました。
大津紫乃さんておっしゃるんですね。
私からこんなセリフ聞きたくないかもしれないけれど、でも、どうもありがとうございました。高野はあなたといっしょにいて、とっても愉しかったのだと思います。私はなにも知らなかったけれど」
1時間後、大津紫乃は独りで赤坂新坂のマンションにいた。高野の笑い声が聞こえてきそうな気がする。遅くなってごめん、と言いながら合鍵を使ってドアから顔を覗かせそうな思いに捉われる。
(出逢うのが遅かったの?どうして?どうしてなの?
私たちは、どうしてこうならなきゃいけないの?
私、あなたのおっしゃることならなんでも言うことを聞こうと思っていたのに。我慢していれば、いつまでも週に一度は必ず会えると信じていたのに。)
葬儀は妻の英子と大木が話し合って青山葬儀所でと決めた。
当日は真夏の日差しが午前中から照り付ける生憎な日よりになってしまった。
誰もが、みな一様に黒っぽい喪服を着ている。それぞれの富に応じて生地が異なり折柄が違うのがわかる。
「ああ、ここはソドムの市なのか」
大木はいつも葬儀に参列するとため息をつかずにおれない。自分がソドムの一員でないことを神に感謝したい気持ちになる。
穢れた人々。穢れた魂。その魂が寄り集って、逝ったものを送る。逝く者の魂は無垢になっている。
残る者の魂のために人生をすり減らしている自分。
大木には自分がシリウスの高みからこうした人々を眺めているという密かな悦びがあった。
手は穢れた人々に差し伸べている。しかし、自分の手はどんなに汚れたものに触れたところで穢れることはない。俺はそういう役回りを天に託されているのだ。
本当にそうなのか?
俺は清らかなのか?
ここにいるのは、実はすべて罪なき衆生なのではないのか。必死に生きてきた、生きる喜びを精一杯、切なくも追い求めてきた善男善女ではないのか。
それに比べてこの俺はなんだ。
しかし、大木の目は別の光景にすぐに釘点けになかった。びっくりするほどの数の人たちが詰めかけたていたのだ。ほとんどが社団法人の理事長になってからの知り合いだった。いや、知り合いではすらない人々が高野のために炎天下の式場につめかけ、焼香すべく黙って立ったまま並んでいた。
高野は最近では立法活動に熱心になっていた。大木と共通の後輩である衆議院議員の輿水信一郎の議員会館の部屋をたびたび熱心に訪ねていた。大木もなんども一緒にでかけた。そのための講演活動にも高野は力を入れていた。全国行脚さ、と言っていた。
葬儀場には川野純代がいた。三津田沙織もいた。同じような高齢者がたくさんいた。その子、孫の年齢の人たちもいた。大木が一番驚いたのは、親といっしょに来ている高校生や中学生、それに小学生の姿だった。赤ん坊をバギーに載せたり抱いたりした姿もあった。
高野さんは私たちの恩人だという声がそこここから漏れた。信仰のある者もない者も、誰もが熱心に高野の成仏を願い、祈りを捧げた。みんな我がことのように真剣な面持ちで手を合わせている。義理や儀礼で来ている者は一人もいない。
大木は、目を見張りながら、そうだ、そのはずなのだと納得した。日本人は、72年前、戦争に負けて食うや食わずの生活から立ち上がったのだ。そのとき立ち上がった30歳だった人は1915年生まれということなる。だからほとんどはもう生きてはいない。しかし、子どもが育っている。団塊の世代の子どもたちだ。高野や大木の世代の人間たちだ。もう老人になりかけている。その次、団塊の世代に生まれた子どもたち、創業者の孫たちの世代がもう30歳から40歳になっている。敗戦直後に株式会社制度によって事業を起こした人たちの孫たちだ。さらにその子供たちがいる。高校生や中学生の姿があって当然だった。
誰もが株式会社につながっているのだ。株式が世代を超えるごとにたくさんの人たちに散っていっていても、少数しか持っていない株主が無数にいてもなんの不思議もなかった。
今日、ここに高野の葬儀に来ている人は誰もが、高野が始めた社団法人のおかげで凍りついていた手元の少数株、生命のかよっていなかった少数株を解凍してもらい、生命の息吹を吹き込んでもらった人たちなのだ。自分でもそんな権利があるとは知らないでいた人もあることだろう。
大木は、こんなにもいろいろな年齢の人間が集まった葬式を見たことがなかった。どの葬式も、老人が死ねば老人たちが、若者が死ねば若者たちが、いずれも死者と同じ年頃の人たちが参加するものだ。
大木は異様な感動に包まれたまま、写真のなかで微笑んでいる高野の顔に見入った。確かに、高野の植えた樹は日本の大地に根づき、葉を広げようとしている。
(オマエ、こんなどえらいことになっているぞ。そっちから見えているのか)
遠くから大木の姿を見つけて、大津紫乃が小走りに近寄ってきた。
「先生、大津です。ムコージマ・コーポレーションの。その節は大変お世話になりました」
深々と腰を折って頭を下げた。
「やあ、大津さん、ありがとうございます。高野の奴、先に行ってしまって」
大木の目に涙が光った。隣に辻田の姿があった。
「先生、お願いがあります。
もし可能でしたら、私に社団法人の仕事をやらせてください。高野さんのやり残したことを成就させたいのです。
立法のことです。私、高野さんからいずれはそうならなくちゃいけないのだといつも聞かされていました。
社団法人ですから、相続とかどうなるのか私にはさっぱりわかりません。奥様のお立場、お子さんのお立場がおありなのだろうと想像します。
でも、先生、大津紫乃のたってのお願いです。どうか私を高野さんの社団の跡継ぎにしてください」
「そうですか。
あいつも喜ぶことでしょう。社団法人の理事長ですから、特に法的に相続がどうこうということはありません。でも、奥さんたちには私から話してみます。わかってくれるでしょう。
この仕事は、この仕事に情熱を持っている人でなければできません。
あいつが生きていたら、たぶん、大木、オマエどう思うとたずねるでしょう。私は、大津さんに継いでもらうのが一番だと言ってやりましょう。そう思いますからね。あいつなりに込めた思いもあるでしょうし。嬉しいお申し出です。
立法化の話を進めていたところです。聞かれているかもしれませんが、議員立法でやろうということになっていて、自民党の輿水先生が大変乗り気です。彼は、非上場会社の少数株主の問題が上場会社と本質的に変わらないことを分かっています。日本が活力を取り戻すために大事なことだとも分かっています。アベノミクスにとっても重要な分野だということを言っています」
「私は高野さんの思ったとおりのことをします。高野さんが生きていたら実現したいと思ってらしたことを、そのとおりにやります。先生、もう高野さんには相談できません。先生にお願いするしかありません。どうか、よろしくお願いします」
遠くから輿水代議士が高野に駆け寄ってきて、両方の手を握りしめた。
「大木先生、申し訳ない。間に合わなかった」
「ああ輿水先生。忙しいのにありがとうございます。
さすが政治家ですね。冠婚葬祭のうち結婚式は予定ができる。葬式はいつも突発だ。だから、葬式に来てくれる政治家は本物だって。
でもね、先生、間に合わなかったなんておっしゃらないでください。
高野の奴、そんなこと気にもしていません。
あいつ、樹を植えていたんです。その途中で自分の人生が終わることは覚悟の前です。でも、誰が植えても樹は水さえやれば育つ。
この大津柴乃さんが次の水撒き人です。
高野同様、どうぞよろしくお願いします」
柴乃が大木の隣で深々と頭をさげると、輿水代議士はすぐに柴乃の両手を掴んで、大げさな身振りで上下に動かした。
(22章「オーナーは少数株主に対してフェアに」の続き。24章に続く。初めから読みたい方はこちら)
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html