[為末大]<救われるには「捨てる」こと>救われたいと願いながら、それに立ちはだかっているのは自分
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
私は世の中はどこまで発展していっても、「苦しみは取り除けない」と考えている人間で、しかもその苦しみを取り除いてくれるものは「外部には存在しない」と思っている。突き詰めれば「苦しみとは、ものの見方にある」のだけれど、人はそこからなかなか抜けられない。
苦しみの前に必ず執着と見方の癖がある。何も欲さず何も裁かずあるがままに見れば苦しみも無い。おそらく本質的な救いは、現実を変える事ではなく見ている自分に気づく事、突き詰めれば救われたい自分を捨てる事になるのだと思う。
けれどもどうしても人は見方より現実を変える事に意識がいってしまう。こう考えればお金持ちになれる、こうすれば成功できる、こうすれば楽になれる。救いというより、痛み止めに近いものが世の中では救いとして扱われて、そして消費されていく。
山頂に石がある。
風が吹き雨が降って、ほとんどの石は転げ落ちた。最後にたまたま山頂に石が残った。ただそれだけと言えばただそれだけ。他の石がかわいそうじゃないかと思えばかわいそう。それを見ている自分が決めている。
自分で救われたいと願いながら、それに最も立ちはだかっているのが自分。植木等さんがお父さんに歌を出す報告に行った時、厳格なお父さんに怒られると思ったらむしろ勧められたらしい。「わかっちゃいるけどやめられない」、苦しみの本質だとお父さんがおっしゃったそうだ。
救われるには得るより捨てる事なんじゃないか。
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