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.社会  投稿日:2014/4/29

[為末大]<善の設定>苦しい人は一つの「善」に染まり、しなやかな人は「善」が幾つもある事を知っている


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為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

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先日、ブレストをしていて、問題がありそれを解決しようとする前に、「なぜそれが問題なのかという事があるよね」という話になった。どう解決するか、どう成功するかの本はあっても、成功とはなにか、なぜ解決すべきなのかの本はあんまりない。

足が遅い人がいて、どうも腕ふりがよくないと言われる。そして僕に相談に来てこう話す。「腕ふりが問題なんです」と。実は前提に足が速い方が善いという事が無いと、足が遅い事も腕ふりがよくない事も問題にはならない。善が設定されてはじめて問題が立ち上がる。

宗教が企業に比べて長く続いてるのは、「善」をちゃんと設定したからじゃないかなと思う。人間なんて本当は「何が善い事か」なんてわからないと僕は思っていて、そういう点で「これが善い事なんです」と言いきってくれると安心する。

多様性とは、多様な善の共存で、多様な善の共存の難しさは、問題がそれぞれに違う事。世の中に様々な事件が起き、それについて議論が活発になる事のほとんどは、突き詰めると違う「善」のぶつかり合いにも見える。価値観が多様化し、共通善より個別善の領域が拡大しつつあるのではないか。

自由の究極の辛さは、「善」の設定を個人で行わないとならない事。文句を言いながら、それでも「善」を押し付けられた方が跳ね返すものがあって随分楽だと思う。僕は勝利条件と表現するけれど、人生の悩みは善の設定に費やす時間がほとんどだと思う。

自分が抱えるコンプレックスや恥の感覚、無能感は、無意識にある「善」によって立ち上がる。「善」が無ければ「悪」も無く、問題も無い。苦しい人、悩む人は一つの「善」で一身が染まっている。しなやかな人は「善」が幾つもある事を知っている。

 

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