無料会員募集中
スポーツ  投稿日:2019/12/29

私のパフォーマンス理論 vol.50 -なぜ私は銅メダルを取れたのか-


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

 

【まとめ】

  • 銅メダルの獲得には1、自分の特性を活かされるような親と指導者と出会った、2、400Hに転向した、3、一人で海外で転戦した の3つが大きく影響した
  • メダル獲得に影響を与えた要因は半分は自分で選べないもので、半分は自分で判断したもの
  • 400H以外の競技ではメダル獲得はまずなかっただろう

 

私は銅メダルを二つ獲得しているが、この獲得に影響を与えた要因を考えてみると以下の三つに集約されるように思う。当然、持って生まれた才能はかなり大きく影響しているのが、このような先天性の条件は今回は敢えて入れずに、後天的に得たものだけを考えている。

 

1、自分の特性を活かされるような親と指導者と出会った

私の子供の頃の評価は、落ち着きがない、繊細というものだった。自分なりの分析では、いわゆるガキ大将というタイプだけでもなく、繊細で傷つきやすい側面もあったように思う。体を動かすことが好きな一方、本を読み自分の世界にふけるのが好きだった。また、なんでも自分でやりたがった。夢中でやっている最中に人に話しかけられることが嫌いで、ましてやこうしろと指示されることがたまらなく嫌だった。

私の親は最初のうちは勉強しなさいとかいろいろと言っていたが、どこかのタイミングで何も言わなくなった。学校の成績は振るわなかったが、それも途中から言われなくなった。中学の指導者も、怒ることは大いにあったが、途中からこの性格を理解したのか自由にさせてくれた。競技力が高かったから、仲間の中でも浮く可能性はあったと思うが、みんなと一緒に駅伝に出たり行事を行うなど、ちゃんと部活の一員としての役割も果たさせてくれたと思う。

この子供の頃から中学時代にかけて、みんなと関係を築きながら、やりたいようにやってもいいという根本的な感覚を掴んだ。この自信は競技人生後半まで多大な影響を及ぼしたと思う。

 

2、400Hに転向した

短距離で頭角を表したが、もともとジャンパーのような体質で、幅跳びでも中学時代は全国ランキングで一番になっている。伸びがある走りとも言えるし、間延びした走りでもあった。高校時代になるとこの特性が影響してか100mでは勝てなくなっていく。その中で400Hに出会い、指導者にも勧められたこともありスタートした。メダル獲得にはこれが決定的な判断だったと思う。400H以外の競技ではメダル獲得はまずなかっただろうし、タイミングとしてもよかった。それなりにスプリントをやり、かつハードルに適応するのに時間が足りなさすぎるということもなかった。

本格的に400Hのハードル練習を行なったのは18歳の国体前9月の頭ぐらいからだったが、最初からこれならやれるという感触を掴んだ。なぜかわからないが、ハードルに突っ込むときに私は全く恐怖感なく、勢いよく入れた。短距離では遠慮がちだった、ストライドも思いっきり伸ばして良かったので、走りながら心地よかった。

100mにこだわりを持っていたが、それが厳しくなりつつあったことと、地元国体で400Hがあったこと、指導者が元400H選手だったことなど、偶然が重なり比較的スムーズに400Hに移行できた。

 

3、一人で海外で転戦した

海外の転戦を一人で行ったのが22歳の時だった。それから現役時代はほぼ毎年海外に行き試合に出ていた。基本はコーチがいなかったので一人で行き、一人で走り、一人で帰ってきた。この一人で海外に滞在し試合をした経験はとても大きかった。

とても強く覚えている瞬間がある。試合のレーン決めをする際に、ぼーっとしていたら自分が一番不利なレーンに割り振られた時のことだ。強烈に、何も主張せず待っているだけだったら、誰も助けてくれないし、誰かが自分のことを気遣ってもくれない、とにかく自分で自分の道を切り開くんだと思った瞬間だった。ずっと日本で過ごしてきた自分が、勝つために主張し打って出て、もぎ獲るんだというモードになったのはこれがきっかけだったと思う。

もう一つは、具体的に世界のトップは何が優れていて、何は弱いのかを観察できたことが大きい。世界を体験する中で、結局世界の400Hはすごいが、スプリントに頼っていてハードルを詰め切っていないと思った。特にコーチが110Hと400Hの違いをさほど気にしていないのを目の当たりにしたときに、400Hの戦略を詰めきればやれるかもしれないという希望を得た。それからハードルごとの減速と、一台目の初速を高めることにフォーカスして、メダルにつながったと思っている。

 

全体を整理すると、

・もともと身体能力に優れたが、やや内向的で、物事への執着心が強い人間だった

・あまり強制し過ぎず自由にやらせるという教育方針だった

・大学入学という転換点でハードルに転向した

・海外に一人で転戦し、世界を早めに体験し、隙間を見つけた。

おそらくこのような条件が重ならなくても、陸上であれば何かの日本一にはなっていた可能性があると思うが、そこから世界の三番までは幸運が重ならないと厳しかったと思う。半分は自分で選べないもので、半分は自分で判断したものだったと思う。特に人生の最初の段階で、人の言うことが聞けず自分でやってみるまで納得できない性格が尊重され、そのことにコンプレックスや引け目を感じることなく来たのは大きかった。これにより根本の部分で自分に自信を持つことができ、その自信が世界の最後の勝負所で効いたと思っている。本当の勝負では隠しているものが全部出てしまうからだ。

次回はなぜ、金メダルが取れなかったのかについて分析する。

 

トップ画像:Pixabay by ArtTower


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."