[久保田弘信]【ISIL誕生の要因はイラク戦後混乱期にあった】~英米占領軍への憎悪が招いた悲劇~
久保田弘信(フォトジャーナリスト)
大規模戦闘の終結宣言後、バグダッドの復興は目を見張る程早かった。軍事力で大差がある英米軍の前にイラク軍はなすすべがなく、徹底抗戦も噂されたがイラク軍はあちこちで簡単に投降していった。地上軍が首都バグダッドに迫ってくる中、サダム・フセインはイラクのテレビで徹底抗戦を呼びかけた。勝ち目がない戦いのため、地上軍をバグダッドに引き入れ化学兵器や戦術核を使うとの噂も流れ、バグダッドに残ったイラク市民やジャーナリストを戦慄させた。ところが、バグダッドでの徹底抗戦はほとんどなく、たった20日間の4月9日にバグダッドは陥落した。
通常の戦争で行われる鉄道、橋、道路などのインフラの破壊がほとんどなかったため、戦後の復興も早かった。戦後取材で再び訪れたバグダッドの商店には肉、魚、野菜などが並び戦争の面影は破壊された建物だけだった。
しかし、イラクの戦後統治は国連が顔を出すことはなく、戦闘に参加した英米軍を中心に行われることになった。歴史に「たられば」はないが、ブルーの帽子をかぶった国連の兵士によって戦後統治が行われたら、これ程酷い結果にはならなかったと思う。イラクの象徴であったサダム・フセインの宮殿は米軍の基地となっていた。
サダム・フセインの長い圧政に苦しんだイラクの人々、サダムから解放された喜びの声が聞けると思って宮殿近くのイラク人にインタビューしてみた。「サダムは嫌だったが、あいつら(米軍)はサダムよりもっと嫌だよ」という声が多く聞かれた。世界ではフセイン像(ではなかった)が倒されイラクの一般市民が歓喜するほぼやらせの映像が流される中、イラク人の占領軍に対する不満は高まりつつあった。
戦後数ヶ月経っても、イラクの要所は米軍に警備されていて物々しい雰囲気だった。軍事拠点ならいざ知らず、スーパーマーケットの前でさえ装甲車両が警備していてイラク市民は窮屈さを感じていた。
バグダッドの警備にあたっている米軍兵士には戦闘経験が殆どない若い兵士も多く、威嚇のつもりで発砲したらイラク人を殺傷してしまったという事件があちこちで聞かれた。
戦後の混乱が始まりつつあり、爆弾事件があった現場を取材していたら、突然銃撃戦が始まった。咄嗟に銃声の方に走っていくと隣あうビルとビルでAK47による銃撃戦が行われていた。誰かが通報したのだろう、10分も経たずに米軍が到着してビルへと突入していった。
米軍の後に続いてビルへ突入しようかと思ったが、さすがに危険度が高いと判断してビルの外で待機していた。ビル内での銃撃戦もあるかと想像したが、米軍はあっという間に一人の少年を逮捕して出てきた。少年はなんら抵抗する気配もなかったが、突然一人の米兵が少年を投げ飛ばし押さえつけた。
近所の少年たちが米軍の横暴を冷たい目線で見ていた。少年が連れて行かれた後、近所の人に話を聞くと「自衛のために銃を持っている人がほとんどで中にはRPG7(ロケットランチャー)を持っている人もいますよ」「ただ、今日の少年は武装勢力とは全く関係ないです」と話してくれた。
逮捕された少年の母親にインタビューを試みるが「話すことは何もないです」と断られてしまった。数日後、粘り強くインタビューをお願いすると母親が応じてくれた。家に入れてもらってビックリした。そこには銃を発砲して米軍に逮捕された少年がいた。
少年は17歳、父親がサダムの軍に属していた事で弟がいじめられたらしい、その喧嘩がエスカレートして銃撃戦になってしまったそうだ。なんとも、想像を絶する結末だった。問題は逮捕された少年の扱いだ。少年は武装勢力の疑いをかけられ、米軍によって2日間拷問を受け、肩の骨を折られて解放された。銃を発砲する事は良くないことだが、イラクに警察権が残っていれば2日間拷問を受ける事はなかった筈だ。
戦後イラクでこのような事件は多々あるが、ジャーナリストが取材するのは困難だ。事件が起きた時点で現場は立ち入り禁止区域にされてしまい、米軍のお抱えジャーナリスト以外は立ち入り不可能となってしまう。
無抵抗なのにその場で射殺や撲殺されてしまった事件も多く聞いている。疑いをかけられ骨折させたれた少年には勿論何の保証もない。米軍の横暴を見る子供達、被害を被っても訴える先さえないイラクの一般市民。米軍に家族を殺されたイラク人は言った「復讐したくてもできない、だから武装勢力にお金を寄付して復讐をお願いしました」と。
自分たちの力では占領軍を追い出せない。そんな人たちが海外から武装勢力を招き入れてしまった。戦後12年が経った今、英米軍はイラクから撤退したが、治安が保てない国イラクが誕生してしまった。