[Japan In-depth 編集部]【米五輪王者衝撃の告白「私はトランスジェンダー」】~65年の偽りの人生にピリオド~
Japan In-depth 編集部 (中西美香子)
ある一人のアメリカン・ヒーローの衝撃的な告白インタビューが世間を騒がせた。去る4月、米ABCテレビのトーク番組「20/20」にて、ジャーナリストのダイアン・ソイヤ―の独占インタビューを受けたヒーローは、自身がトランスジェンダー(注1)であることを公表した。トランスジェンダーや同性愛者の報道や活動が盛んであるアメリカで、なぜこれほどまでこの告白に国民は衝撃を受けたのか?それは、1976年のモントリオールオリンピックで世界記録を叩き出した陸上男子十種競技金メダリストのブルース・ジェンナーがその人だったからだ。ジェンナーは当時「世界で最も素晴らしいアスリート」と称され、アメリカ中の国民を虜にした。その後はトップアスリートの肉体美と典型的なアングロサクソン美を売りに、ハリーウッド俳優としても活躍していた。
また、長年に渡りモチべーショナルスピーカー(注2)だった彼は、アメリカ全国を講演して回るなど、メダルを取ってから40年近くも公の場で活躍してきた。現在も長年続いているアメリカで最も有名なリアリティテレビ番組、「カーダシアン家のお騒がせセレブライフ」に登場するセレブ一家の父親として出演中だが、ジェンナーはアメリカの誇り、真のヒーローとされ、特別なリスペクトを受けてきた。
インタビューでジェンナーは、幼い頃より自分は女性であると強く認識していたと告白した。8歳になるくらいから母親や姉の眼を盗み、彼女らの洋服を借りては一人でこっそりと着用していたと語った。家族や世間にカミングアウトなどできず、「自分を偽って65年間生きてきた」と述べた。ジェンナーが過ごしてきた時代の大半は今より遥かに性の問題に対し社会の眼差しは厳しかったに違いない。また、カトリックの家族で育った彼は尚更そうだっただろう。大学はアメフトのスカラーシップで入学する程スポーツに長けていた彼は、自身のアイデンティティの混乱と苦しみを消し去るかの様にスポーツに没頭したと話した。結果、オリンピックのトップメダリストとまで上り詰めたジェンナーは、その驚異的パワーは葛藤があったからこそ生まれたのではないかとも述べていた。
3度の離婚経験があり、6人の実の子と4人の義理の子がいるジェンナーは、インタビュー中、ソイヤ―にこう問われた:「あなたはゲイですか?」それに対し彼は、「自分はゲイではない。いつだって異性が好きだった。」ときっぱりと答え、ジェンダー(性)とセクシュアリティは全く別のものだと説明した。
ジェンナーのカミングアウトについてアメリカのメディア界で様々な意見が飛び交う中、世間一般の人の多くが不思議に思ったのもこの点だ。なぜ、3人もの女性と結婚し、実の子を6人まで授かっている男性が自分は本来女性として生きたかったと思えるのか?トランスジェンダーは必ずしも同性愛的感情があるとは限らないのが事実とはいえ、多くの人はこの点がいま一つ不可解な様である。
23年間、ジェンナーと共に夫婦として過ごした3人目の元妻クリス・ジェンナーも、元夫のカミングアウトをサポートしていると言ってはいるものの、あるインタビューで、「何故幼い頃より女性になりたいと切望していたのに、結婚して、子どもが欲しいと思えたの?」と理解に苦しむ様子を露わにしている。
ちなみに、10人の子供達と他の元妻の2人、本人の母親も、皆ジェンナーの今回の決断をサポートしていると公言している。
独占インタビューが放映された時のジェンナーは以前の男性の姿で番組に出演し、インタビューアーが本人を呼ぶ代名詞や名前も男性のままのものだった。しかし、わずかその1ヶ月半後の6月1日、ついにジェンナーは女性として生まれ変わったのだ。新しい姿とアイデンティティはアメリカの有名雑誌の「Vanity Fair」の7月号の表紙となり、見出しには“Call Me Caitlyn”−「ケイトリンと呼んで」 と記載された。
今のところ性転換手術は行っていないそうだが、フェミニンな顔立ちになる為に10時間にも及ぶ整形手術を施すなど、“彼女”のその変貌ぶりは、これから歩む第二の人生に腹を据わらせた覚悟を表しているようにも見えた。
表紙を飾ったケイトリンの容姿をとても美しい、セクシーだ、と讃えるメディアが多い一方、批判的な意見も少なくはない。たとえば、人気トークショー、「The Daily Show」で司会をするジョン・スチュワートのその批判はマスメディアに向けられた。真っ白のランジェリーコルセットを纏い、妖艶なヘアメイクとセクシーポーズを決めるケイトリンの容姿ばかりが注目を浴びることが、悲しくもアメリカ社会の歪んだ女性に対する見方を表していているだけで、本題からずれていると指摘した。スチュワートはこう言った。「ケイトリン、あなたが男性だったころ、世間はあなたのアスリートとしての能力やビジネスに対する洞察力を話題にした。女性になった今は、あなたの外見だけが重要になってしまったよ。」
ゴシップネタに過ぎないと茶化されたり、批判的な意見もあるが、ケイトリン・ジェンナーの誕生はトランスジェンダーに対する知識を普及させる機会になった事は間違い無い。また世界中のLGBT社会に勇気と希望を与えたと、彼女のカミングアウトを「革命的」だと絶賛する声も実に多い。雑誌が公開された当日にケイトリンが開設したツイッターアカウントが、立ち上げからたった4時間でフォロワー数が100万人以上を突破し、オバマ大統領の最短記録の5時間を破った。記録はギネス世界記録の公式ホームページでも公表された。更に、7月に行われる大手スポーツ専門局ESPNが主催するスポーツ選手に贈られる年間表彰式で、勇気をたたえる「アーサー・アッシュ賞」を受賞することが決定している。
70年代の“オール・アメリカン・ヒーロー”は、21世紀にはトランスジェンダーの象徴的スターとして生まれ変わった。60年以上も続いたしがらみと抑制からやっと解放された彼女だが、今後も世間とメディアの批評から逃れることは難しそうだ。
(注1)性転換手術までは行わないが、異性の社会的性的役割や規範に収まりたい人。また性別に応じた社会で認識されている役割や規範に収まらない傾向を含む、あらゆる個人および行動、グループに当てられる名称。
(注2)様々なテーマにおいて「意欲を起こさせる」プロの演説者。