[林信吾]【『共産党宣言』がロンドンで出版された理由】~ヨーロッパの移民・難民事情 その9~
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
「労働者は祖国を持たない」これは『共産党宣言』の中の有名な一節である。古典というのは大体なんでもそうなのだが、それが書かれた時代背景について知らないと、しばしば的外れな解釈をしてしまうものだ。
カール・マルクスがこの本を出版したのは、1848年のことである。原稿はドイツ語で書かれ、英国ロンドンに送られて出版された。序文の最後には、この宣言は「英語、ドイツ語、フランス語、イタリー語、フランドル語およびデンマーク語で発表される」と、わざわざ書かれている。
この当時、最大にしてもっとも活動的なドイツ人共産主義者の組織は、ロンドンにあった。当初は「義人同盟」と名乗っていたが、やがて「共産主義者同盟」となる。本のタイトルも、最近では『共産主義者宣言』が正訳だと言われているが、テーマと直接関係ないことなので、ここでは置く。
順を追って説明しなければならないが、当時のドイツはまだ、工業技術の面で英仏の後塵を拝しており、なんらかの職人として一人前になろうと志す者は、これら「先進国」で修行をする例が多かった。英仏の側でも、器用で我慢強いドイツ人は、見習い職人として重宝していたらしい。
当時はまた、産業革命のまっただ中で、別の言い方をすれば、職人が機械によって仕事を奪われていった時期であった。職人が、産業革命の推進者にして受益者である資本家を敵視したのも当然だと言える。それを今の感覚で、職人と共産主義がどう結びつくのか、などと考えると、正しい理解に至ることは難しい。古典を読むに際して警戒すべき的外れな解釈とは、具体的にはこういうことだ。
職人だけでなく、製造業がまるごと移転してしまうケースもあった。今のように工場を海外に、という次元の話ではなく、業界ぐるみ移住してしまうのだ。
たとえば、もともと織物産業が盛んだったフランドル地方(現在のベルギーの一部。『フランダースの犬』の舞台となった土地)から、羊毛の一大産地であった英国中部のマンチェスターに、多くの業者が技術ぐるみ移転してきた例がある。15世紀頃の話だ。
彼らは、16世紀に時のイングランド王ヘンリー8世がローマ法王と袂を分かち、国教会を設立して以降も、カトリックの信仰を守り続けた。このためマンチェスターは、英国にあっては例外的にカトリック人口が多い土地である。
今の日本では、マンチェスターと聞くと強豪サッカー・クラブの名を思い浮かべる人が、おそらく多いのであろうが、マンチェスター・ユナイテッドはカトリック系、マンチェスター・シティはプロテスタント(国教会)系の市民がサポーターの中心であるということはご存じだろうか。
サッカー談義はさておき、マルクスが「労働者は祖国を持たない」と断じたのは、やがて世界はブルジョアとプロレタリアの二階級に分断される、と考えたからで、その背景には明らかに、労働者の、国境を越えての移動が今よりずっと自由であったことがある。このことはマルクス自身が『共産党宣言』の中で、「ろくな路(みち)がなかった中世の市民にとって何世紀もかからなくてはできなかった団結も、鉄道を用いる近代プロレタリアは、これを数年にしてなしとげるのである」との論理を展開していることによって証明されよう。
しかし現実の世界は、そのようには動かなかった。19世紀の一連の市民革命によって「王家が支配するヨーロッパ」は事実上解体されたが、相次いで誕生した共和制国家においては、ブルジョアもプロレタリアもひとしく「国民」とされたのである。
私が、人・物・カネ・情報が国境によって隔てられるのは合理的でないと考え、
「国民国家などというものは、たかだか200年の歴史しか積み上げていない」
と繰り返し述べるのは、この歴史を踏まえてのことに他ならない。
マルクスの思想とはだいぶ趣を異にするのだが、私もまた、「地球が生まれた時から地面に国境線は引かれておらず、人間という生き物が本質的にどこかの国民であるわけではない」と考えている。だからヨーロッパの移民・難民事情に関心を持ち続けているのだ。