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.国際  投稿日:2023/4/20

意外と知らない「NYの桜」秘話


柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)

【まとめ】

・ニューヨークでは4月半ば前に桜が満開になった。

・桜の名所として有名なワシントンの桜並木は日米の関係者の苦心によりできた。

・この桜並木と同様にニューヨークの「サクラ・パーク」も日米親善の象徴になっている。

 

今年の冬は記録的な暖冬だったらしく、ニューヨークでは例年より一ヶ月くらい早く、4月半ば前に桜が満開となった。例年ならば4月半ば〜5月上旬までが桜の季節となるが、遅咲きの品種を除いては、もう満開の時期を過ぎてしまったものもある。

アメリカで、桜の名所として、まっさきに思い浮かべるのは首都ワシントン、ポトマック川沿いの桜並木であろう。世界でも有数の桜の名所として知られる。

ワシントンの桜は、1912年(大正元年)、当時の東京市長、尾崎行雄から、ヘレン・タフト大統領夫人を介してワシントンDCに贈られたものである。

日本に在住経験があり、著作家で、親日家でもあったエリザ・シドモアという女性が、東京、向島の桜の美しさにうたれ、ワシントンDCのポトマック河畔に桜を植えてはどうか、と親交のあった当時のタフト大統領夫人に提案したのがことの始まりだ。

提案にタフト夫人は興味を示した。そして、タフト夫人を中心に、実現に向けて動き出していることが、その時、ワシントンを訪れていた高峰譲吉博士(「アドレナリン」の発見者として有名)と、同行していたニューヨーク総領事、水野幸吉の耳に入った。

ニューヨークに在住していた高峰もかねてから「ニューヨークに桜並木を造ろう」という構想を持ち、ニューヨーク市に積極的に呼びかけていたのである。高峰は当時、ニューヨークの民間日本人を代表するような立場の実力者で、日米親善にも心を砕いていた。

NY総領事水野は外務大臣、小村寿太郎に計画の存在を知らせた。計画はあっという間に実現に向けて動き出し、発案者のシドモアが向島の桜並木に心を打たれた、と言ったことから、小村は外務次官を通して、東京市長、尾崎に、東京市名義で、ワシントンに桜を送れないか、と打診した。かねてから、日露戦争におけるポーツマス条約調印の仲介をしてくれたアメリカに対して謝意を示したいと思っていた尾崎は、渡りに船、とばかりに快諾し、2,000本の桜がワシントンに送られることとなった。

1909年(明治42年)12月10日、出港から3週間かけて、2,000本の桜は日本郵船「加賀丸」にて西海岸北部のシアトルに到着した。日本郵船の当時の社長、近藤康平は事のいきさつに感激し、尾崎市長に出した手紙の中で「一層奮発、国交上ノ関係ヲ重ンジ、全然無賃ニテ運搬ツカマツルコトトシ」と、シアトルまでの桜の輸送費を無料にしたという。

水野が小村に打診したのが6月だというから、日本の役人、官僚がする仕事としては大変なスピード展開である。シアトルに到着した桜は、列車で東海岸のワシントンに向けて出発し、ほぼひとつき後の翌年1910年1月6日、無事にワシントンDCに到着した。

しかし、日米親善の証として贈られた桜には悲惨な結末が待っていた。

到着した桜はアメリカ農務省の検疫により、ほとんどが害虫に汚染されていることが判明したのである。

1月19日、農務省は2,000本の桜はすべて処分しなければならないと結論づけ、タフト大統領に通知した。1月28日、大統領命令で、桜の木は焼却処分され、ノックス国務長官は日本の関係者に「深い後悔」を表明する通知書を送った。

人々の落胆は大変なものであった。

しかし、落胆が大きかった分、その無念さが人々の心に火を点けた。

桜の苗木を、今度はより、完璧な状態で再びアメリカに贈ろう、ということになったのである。

ワシントンに贈る桜は3,000本と増え、加えて、ニューヨークにも3,000本が贈られることになった。

結果、国の威信をかけたプロジェクトとなり、農商務省から博士や植物学者、経験豊富な造園家など、その道の専門家が集められた。桜の苗木はすべて荒川堤の桜並木から採取され、2年以上かけて入念に準備された。

そして、1912年2月14日。

桜の苗木、6,040本は、横浜港から、同じ日本郵船の「阿波丸」によって、シアトルに向けて出港した。

元号は「明治」から「大正」に変わっていた。

積み込まれた苗木は、ソメイヨシノを筆頭に、関山(カンザン)、一葉(イチヨウ)、滝匂(タキニオイ)などの12種類で、シアトル到着後、特殊な断熱貨物車に移され、3月26日、ワシントンDCに到着した。

ワシントンに苗木が到着した翌日の3月27日には、タフト大統領夫人、珍田日本大使夫人らの臨席により、ソメイヨシノ2本の植樹式が行われている。関係者がいかに桜の到着に心を砕いていたかがわかる。

▲写真 ワシントンDCに今も残る、1912年に、最初に植樹された2本の桜の木のうちの一つと、説明がある銘板(筆者撮影)

ちなみに到着した桜だが、検疫にあたった専門家が「こんなにみごとな輸入植物を見たことがない」と驚嘆する完璧さであったという。

この時ワシントンに移送された3,020本の桜は、その後、世界でも有名な桜並木となり、春のワシントンを象徴する場所となった。今ではサクラ祭りなども合わせ、この季節だけで、100万人の人が訪れるという。

▲写真 ポトマック河畔タイダル ベイスン周辺の満開の桜(2023年3月21日 米国・ワシントンDC )出典:Photo by Paul Morigi/Getty Images

では、同時に移送された、残りの3,020本の桜の苗木はどうなったのであろうか?

私が調べた範囲では、同時にニューヨークに移送された事になっているが、確認した複数の公式記録で説明が異なり、正確なところは分からなかった。ワシントンで植樹式が行われた翌月の4月29日に、ハドソン川横のクレアモントパークという公園で「植樹歓迎式」があった、という記録はあるので、とにかくニューヨークに到着したのは間違いないと思われる。

3,020の苗木が植樹された先は、クレアモント公園、ハドソン河畔、一部がセントラルパークへ、という事になっているがはっきりしない。現在のニューヨークには、ワシントンのような巨大で見事な桜並木などが見当たらないのである。

しかしながら、ニューヨーク公園管理局のウェブサイトによれば、日本原産とされる桜は、現在、有名になりつつあるセントラルパークの桜なども含め、ニューヨーク市内に38,000本以上植えられているという。数の多さから言って、これらの桜のかなりの部分は、120年前に海を渡った桜の子孫であると想像される。

▲写真 ニューヨーク市内に街路樹として植えられている、日本の桜の場所を示すNY公園管理局のウェブサイトの地図 出典:NY公園管理局のウェブサイト

長い時を経て、高峰博士らの悲願は、文字通り大きく花開いたといえるのではないか。

1912年にクレアモント公園に植樹された桜は、公園を象徴する存在となり、この公園はこの年「サクラ・パーク」と名前が変更された。

しかし、公園自体の存在や、「SAKURA」が桜を意味することや、ここに桜が植えられていることはニューヨーカーの間でもあまり知られてはいない。実のところ、私も訪れたことがなかった。

この記事を書くにあたって、ハドソン川横のこの公園を初めて訪れてみてわかったが、ワシントンの桜並木と同様に、この公園も、日米親善の象徴となっていたのである。

▲写真 「Sakura Park」北側にある、東京都から贈られた石灯籠(筆者撮影)

公園の北側に、ひときわ目立つ、石灯籠が建っている。

これは、1960年(昭和35年)、明仁上皇が皇太子だった時代に、美智子妃殿下と日米修好100周年に際してアメリカ各地を訪問(ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランド)し、ニューヨーク訪問時にこの公園を訪れた時に、日本から移送され、ニューヨーク市に寄贈された石灯籠である。

灯籠の裏側にはこう刻まれている。

「(この灯籠は)1960年2月29日に始まった東京・ニューヨーク姉妹都市提携を記念して、東京都民からニューヨーク市民へ贈られたものです。」

尾崎行雄東京市長から、ワシントン・ニューヨークに桜が贈られて120年。

見事に桜が咲き誇るこの公園は、その昔あった物語を語ってくれる。

おだやかな日差しの下、和む人々を見て、この公園はニューヨークの地元民の安らぎの場所としてすっかり定着していると確信した。

公園のすぐ西のハドソン川から吹いてくる春の風が心地よかった。

(サクラ・パークの模様は、動画をごらんください)

トップ写真:ニューヨーク「Sakura Park」。休日には多くの人が訪れる。(筆者撮影)




この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー

1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。

柏原雅弘

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